「同田貫について詳しく教えてください」という質問が寄せられました。
ここ数年、同田貫の刀の人気が非常に高まり、市場でもかなり高値で取引されるようになりました。私は詳しくないのですが、「刀剣乱舞」という刀剣を擬人化したゲームやアニメの中に、同田貫正国が登場することが大きなきっかけになったようです。
同田貫は、昔から実戦向きの刀として人気があったと聞いています。加藤清正が文禄・慶長の役で朝鮮に出兵した折、配下の多くの武将が携えた同田貫が見事な切れ味を示したという話や、明治21年(1888)、明治天皇の御前で榊原鍵吉が兜を切った刀が同田貫であったという話などは有名です。
また、映画やテレビドラマにも同田貫の刀は出てきます。「子連れ狼」の主人公、中村錦之助が演じる拝一刀や、「荒野の素浪人」の中で、三船敏郎が演じる峠九十郎の差料が同田貫でした。

■加藤清正の抱え工となる
同田貫一派の活躍年代は、室町時代最末期の天正~慶長末年ごろの約四十年間です。
鍛刀地は、最初のころは刀の銘文にある通り「九州肥後同田貫」でした。すなわち現在は菊池市に属す菊池郡稗方(ひえがた)村同田貫であり、当時は末延寿の鍛冶場があった所と言われています。その後、加藤清正の抱え工となった天正十六年(1588)ごろ現:玉名市の亀甲村や伊倉南方村に集団移住したと思われます。
主な刀工としては、正国(信賀・上野介同人か)、清国(国勝同人か)がおり、俗名のような銘で、例えば、上野介・又八・(源)左衛門・兵部・次兵衛などと切る刀があります。最盛期には二十人前後が活躍していたと考えます。
同田貫一派にとって最大の転機は天正十六年、加藤清正が佐々成政に代わってこの地の領主になったことでした。清正の抱え刀工集団となって日夜作り続け、常備刀として熊本城へ大量に納めたと考えられます。
しかし、慶長十六年(1611)の清正の死去以後、一派の作品は徐々に少なくなり、慶長末年ごろにはほとんど見られなくなってしまいました。このことは、寛永九年(1632)に熊本二代藩主:加藤忠広が改易になり、細川忠利が熊本藩主になったことが大きく影響していると考えられます。

■作風は高田鍛冶に似る
同田貫一派の作品の多くは刀であり、脇指や短刀は少ないです。しかし、二尺を超す長寸の大身槍が比較的多く残されています。一尺五寸~七寸ぐらいの薙刀もまま見受けられます。
上出来のものには「九州肥後同田貫又八」などと長銘に切り、「九州肥後同田貫」と流派銘のみのものも多く、あるいは銘をいれていない生無銘のものも多くあります。
裏年紀の入ったものはきわめて少なく、天正年紀は数振のみであり、慶長年紀のものもさほど多くはありません。
次に、作風を記します。
鎬造りで二尺四~五寸と長寸になり、身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く、庵棟、中切先延びるもの、あるいは大切先となり、反り浅く頑丈な姿です。
地鉄は板目やや杢交じり、流れ肌立ち、かす立つ感じとなります。刃文は焼き幅広く、小湾れ・互の目・小乱れ交じり、総じてこずむ感あり、むら沸付き、匂口は締まり心となります。帽子は乱込み、先小丸、尖るもの、深く返り棟焼きのあるものがあります。
中心は、鑢目浅い勝手下がりで、中心尻は棟方浅く、刃上がり栗尻となり、棟寄りに太鏨で大ぶりの長銘を切ります。
以上が同田貫の作風の大まかな特徴ですが、姿に多少の差異見られるものの、高田鍛冶の作風に顕著な類似点の多いことが挙げられます。図をご参照ください。

■流派は高田鍛冶か
そこで同田貫の作風がなぜ高田鍛冶に似ているのか、仮説を立ててみました。
当地の豪族菊池氏は鎌倉時代後期に来派の延寿国村を迎え入れ、それ以来、室町時代後期の末延寿に至るまでの約二百五十年間、延寿一派が主流でした。延寿の刃文は直刃が基調です。ところが、延寿の流れを汲むとされる同田貫の刃文は、全く異なる乱れ刃です。それは天文二十三年(1554)、菊池氏が大友義鎮(宗麟)に滅ぼされたことに起因すると考えられます。
刀剣界新聞60号と61号で豊後高田刀を取り上げましたが、そこで、宗麟の絶頂期には九州の半分六カ国を領有し、配下の有力武将を配置させ、同時に輸出用の刀剣を領内各地で製作させたことに触れました。
ここ菊池の地でもその後、弘治・永禄・元亀・天正の中ごろまで、豊後の竹田や大野から優秀な高田鍛冶を呼び寄せて、土着の同田貫刀工たちに技術指導を行わせ、豊後刀として輸出していたとも考えられます。
中にはその後もこの地に残り、同田貫刀工の一員になった高田鍛冶もいたかもしれません。
それ故に、同田貫の作風は地刃の出来はもちろんのこと、中心の形・鑢目・中心尻までが高田刀に近い作風になったのではないでしょうか。
その後、天正時代の後半から大友家に解放され、高田鍛冶の作風をさらに進化させ、同田貫独自の作風を開花したと考えられます。

■同田貫と高田鍛冶の差異
鑑定書の中で、無銘刀に「肥後同田貫」と流派のみ極められることがあります。この場合、生無銘のものと大磨上無銘のものの両様がありますが、同田貫一派の作風は在銘のものであってもきわめてよく似ています。それは、共同の仕事場で協力し合って製作したからでしょう。
前述の通り、高田刀と同田貫はきわめてよく似ていますが、活躍年代の差で姿にわずかな違いが感じられます。
平高田鍛冶は室町時代の刀工であり、末古刀の姿に共通する先反りがつくこと、さらに鎬地を盗む大きな見所があります。
これに対して同田貫は、主に慶長年間が活躍時期であり、慶長新刀然とした豪壮な体配が多く、反りは少なめで、鎬幅は広めとなり、鎬地を盗むことはありません。

(刀剣界新聞-第62号 冥賀吉也)

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