石堂一派についての質問がありました。今回はその概要について説明し、石堂各派の作風の相違点に関しては、次号とさせていただきます。

■各地に及んだ石堂一派
石堂一派とは近江国蒲生郡石塔村(現在の滋賀県東近江市石塔町)の出身で、江戸初期(寛永の末年ごろ~)に江戸や紀州に移住し、古作一文字派風の華やかな匂本位の丁子刃を焼き、地に映りを表した刀工たちを指し、移住したその地にちなんで、それぞれ江戸石堂・紀州石堂などと称しています。
石塔村出身者以外にも、石堂一派に属す刀工は見られます。九州福岡の地から江戸期に出て江戸石堂の是一に作刀を学び、帰国して同様の作風を製した是次・守次らは福岡石堂と呼んでいます。
また紀州の地からさらに需要を求め大坂に移った長幸らを大坂石堂、京に行った正俊・正忠兄弟を京石堂と呼びます。
遠く豊後高田から販路を求めて紀州に趣き、紀州石堂一派に技術を学んだと思われるが、その後、伊賀名張の地に移った鎮忠・鎮政らも伊賀石堂と呼んでいます。
一方、一文字を狙って華やかな丁子刃を焼き、地に映りを交えながらも、そぼろ助広や大村加卜らには石堂一派との関連が見られないために、石堂一派には含まれていません。
正保元年(1644)から元禄15年(1702)ごろまでの約60年間には、華やかな丁字乱れが流行を見ました。石堂一派以外にも、大坂では親国助(初代国助)・中河内国助(二代国助)・初二代忠綱・聾長綱・大和守吉道らに丁子刃が見られ、また肥前一文字と称された出羽守行広にも足長丁子があります。ただし、彼らの作風は小沸出来であり、地に映りが見られず、石堂一派とは作風を異にしています。
次に、各々の石堂について説明していきしょう。

■近江石堂
石堂一派について語るには、まず近江石堂を取り上げなくてはなりません。
近江石堂は新刀期の鍛冶ではなく、室町期に近江国蒲生郡石塔村で鍛刀していた鍛冶集団の総称です。祖は備前長船の助長と言われています。
室町幕府第九代将軍:足利義尚が近江守護の六角高頼を討伐するために出陣した際(長享・延徳の乱)、これに呼応した赤松政則の重臣:浦上則宗の命により、助長は長船勝光らとともに当地に参陣し、鍛刀しています(『蔭涼軒日録』)。
その後、勝光らは長船に帰りますが、助長は石塔村にとどまり、代々刀鍛冶を生業として江戸期に及んでいます。この地名にちなんで彼らを近江石堂と呼んでいますが、残念ながら、近江石堂に有名な刀工は一人もいません。

■江戸石堂
江戸石堂の代表的刀工としては光平・常光・是一・宗弘らがいます。彼らは江州蒲生の近江石堂の出身です。
いつごろ江戸に移住したかですが、光平の最初期の年紀に正保3年(1646)、常光の作では慶安元年(1648)があることから類推して、寛永15~17年(1638-1640)前後ではなかったかと思います。
ところで、寛永後半から明暦ごろにかけて江戸に多くの刀工が移住した理由として、次のようなことが考えられます。
① 地方では関ヶ原の戦の後、刀剣の需要が徐々に少なくなっていったこと。
② 江戸では寛永12年に参勤交代制が始まると、人口が急激に増加し、武士も増えて刀剣の需要が高まったこと。
③ 剣術が奨励され、介者剣法(甲冑を着用した武士相手の剣術)から素肌剣法(甲冑を着用しない武士相手の剣術)に変化したために、新たな刀姿の刀を求められたこと。
④ 明暦3年(1657)の大火により、江戸では膨大な数の刀剣類が焼失し、新たな刀剣の需要が生まれたこと。
徳川家康の命により、江戸の地にはもともと康継や繁慶らがいて鍛刀していましたが、寛永のころは前記の江戸石堂派鍛冶のほかに全国各地から多くの刀工が集まってきました。
例えば、越前国から和泉守兼重、長曽弥虎徹興里・興正、紀州から大和守安定、但馬国から法城寺正弘一派、美濃国赤坂から千手院盛国、越後国から大村加卜等々、後に江戸新刀を代表する名工たちが集まり、技を競い合いました。
ところが、名工ぞろいの江戸新刀の中で、江戸石堂派はなぜ高い人気を得ることができたのでしょうか。まず古作一文字を狙った華やかな丁子刃を見事に焼き、地には映りを交えた備前伝の刀が、当時の武士たちの中に徐々に受け入れられていったことが考えられます。慶長から寛永の中ごろまでは志津写し・貞宗写しなどの相州伝や美濃伝が主流でしたが、やがて華やかな備前伝の刀を自身の指料に求める風潮が現れました。
次に、将軍家の兵法指南柳生家との関連が考えられます。
光平の刀で裏銘に「干時承応二年柳生厳知所持之」(柳生連也斎厳包の初銘)と切るものがあり、江戸石堂一派が柳生家の御用鍛冶であったと推察できます。光平はじめ江戸石堂の鍛冶は皆、良業物・業物ぞろいであり、柳生の一門はこぞって指料を依頼したものでしょう。
江戸石堂一派の活躍年代は、正保・慶安のころから元禄・宝永ごろまでの約60年間です。一派の刀工については諸説ありますが、長兄が光平、弟に常光・宗弘がおり、是一は光平の近親者であったと考えられます。さらに、常光や是一には二代あったことが推定されます。なお、守久なる刀工ですが、石塔村の出身なのか、光平との関係はどうなのかなど不明ではあるものの、作風は完全に石堂風であり、銘文に「武州石堂秦守久」と切るものがあるところから、江戸石堂一派の一人であると考えられます。

■福岡石堂(筑前石堂)
是次は27歳の明暦元年(1655)、さらに技術を磨こうと決意し、筑前福岡藩主:黒田光之の許しを得て江戸に上り、武蔵大掾是一に師事しました。そこで備前伝の秘奧を学び、帰国して大成し、「筑前一文字」と称されています。
活躍年代は明暦・寛文・延宝のころで、天和元年(1681)、53歳で没しました。
是次には子がなく、従兄弟である三歳年下の守次を養子に迎えて奥義を伝え、ともに福岡の地にて活躍しました。守次は元禄14年(1701)、69歳で没しています。
是次と守次にはわずかに作風の違いが見られますが、その点については次号に説明しましょう。

■紀州石堂
紀州石堂の祖と言われる安広が近江国石堂村から来住したのか、あるいは紀伊国富田村の出身なのか、はっきりしません。また、紀州石堂の代表刀工である康広と為康のいずれが兄弟なのかも、昔から諸説があって定まりません。
しかし、安広が寛永13年(1636)、紀州徳川家に四十石で召し抱えられながら、わずか8年後の正保元年(1644)に解雇されたことは『南紀徳川史』に記載されています。
ところで、安広一党がなぜ紀州に移住してきたかについては、元和5年(1619)に家康の十子:頼宣が五十五万五千石で入国し、多くの家臣を抱えたために刀剣の需要も増えたことが考えられます。その時期は元和末年から寛永前後と思われ、その点から江戸石堂一派より早い時期の移動が推定されます。
寛永初年ごろからは子の康広・為康や同族と思われる正俊らが中心となり、紀州藩士の注文に応じて盛んに鍛刀しています。
現存作には「紀伊国當一康広」「紀州住土佐将監橘為康」「紀州住正俊造」など、当地の銘が数多く見られます。しかし、安広が紀州家から解雇されたころより注文が激減したと見られ、それには家臣に刀剣が一応行き渡ったことや、紀州家の抱え工となった南紀重国との軋轢なども起因したと考えられます。
そこで、康広・為康らは販路を別の地に求め、大阪に移住して大坂石堂となりました。初代康広の弟である康永の弟子に多々良長幸がおり、備前伝では新刀随一とされ「新刀一文字」とも称されます。
同様に正俊は京に出て京石堂と呼ばれるところとなり、弟の左近正忠とともに活躍しました。なお、この正俊は三品一派の越中守正俊とは別人です。
このように、紀州石堂一派の作刀期間は寛永ごろを中心に20年にも満たない短期間でした。子孫が紀州に残り「紀伊国康次」「紀伊国大和守康綱」「紀伊国康光」と銘した作品も見られますが、違存作きわめて少ないものです。

■大坂石堂
康広を筆頭とする紀州石堂一派が移住した正保・慶安のころ、大坂には既に全国各地から多くの刀工が需要を求めて集結し、盛んに鍛刀していました。その意味では、少々出遅れれた感があります。
京から堀川一門の:初代和泉守国貞・初代河内守国助が来坂し、三品一門では初代丹波守吉道の次男:丹波守吉道が大坂丹波として活躍しています。大和国からは手掻末流の左陸奥包保、播州からは初代忠綱、初代国助門のそぼろ助広も移住しています。そして、そのころは彼らの二代あるいは門人たちが活躍し始めた時代でもあったのです。
そのような激戦地に移住してきたのですから、相当な苦労があったに違いありません。康広・為康・康永らは必死で頑張り、二代目に引き継いでいます。
そんな中、康永の門人:多々良長幸の活躍がひときわ目立ちます。石堂一派の伝統である丁子刃に映りを交えた備前伝をよくし、一文字写し・応永備前写し・末備前写しなどを注文に応じて製作し、大坂の武士や商人に大喝采をあびました。特に大脇指の作品が多く、またその傑作が多く見られることも特筆されます。
長幸は新刀一文字・大坂石堂とも称され、井上真改・越前守助広の両横綱にも引けを取らない人気がありました。最上大業物としても名高いものがあります。
大坂石堂には移住後の初代康広・為康・康永らも当然含まれますが、それぞれの二代の時代になると、石堂風の作風は徐々に薄れていきました。

■京石堂
康広らとほぼ同時期に紀州を離れ、京に移住した刀工に正俊・正忠兄弟がいます。正俊は紀州石堂の祖:安広の弟子と思われ、京石堂の名があります。「平安城石堂右近正俊」などと切り、華やかな丁子乱れに映りを交えた石堂の作風が上手です。
弟子に「城州五条住石堂助光」「平安城住石堂助利」と銘する刀工がいますが、京石堂一派の違存作は極めて少ないものです。
その理由としては、正俊らが京に移住した正保・慶安のころには、堀川国広一門や三品一門などの強力なライバル刀工が大勢いたことや、刀剣の需要が減り始め、親国貞や親国助らのように需要を求めて大坂に移住した時期でもありました。
延宝ごろの作品に「武州住石堂左近橘正忠」「平安城武州住正俊」などが銘鑑に見られるところから、京からさらに江戸へ移住した可能性も考えられます。ともあれ、京石堂一派はあまり振るわなかった一派と言えます。

■伊賀石堂
室町期にあれだけ栄えた豊後刀も文禄2年(1953)2月、秀吉により大友家が改易されたことにより衰退しました。豊後刀工は帰農したり、雌伏の時を送ったり、他国に需要を求めて故地を離れていきました。
そのうち、鎮忠・鎮政・鎮知・鎮弘らの一族は、慶長から元和にかけての一時期、紀州の地に足跡を残しています。「於紀州肥前守藤原朝臣鎮忠造」の銘がそのことを物語っています。
鎮忠一族は、紀州石堂一派の人々とも交流があったと思われ、丁子乱れに映りを交えた作風を多く残しています。これらの銘文や作風から、伊賀石堂と呼ばれています。
彼らは伊賀国名張で作刀しており、それぞれ寛文ごろまで活躍しました。名張の地は伊賀上野と隣接しており、藤堂家や伊賀忍者との関連も推察できるところです。
しかし、作品はそれほど多く残されておりません。

(刀剣界新聞-第63号 冥賀吉也)

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