■共通する作風

・姿の変遷
石堂一派全体の活躍年代を寛永十年(一六三三)ごろから元禄十五年(一七〇二)ごろまでと仮定した場合、その間は約七十年あります。当然、姿は変化します。
最初期に活躍した紀州石堂の康広や、江戸石堂の光平・常光の初期作の姿は、やや長寸の二尺四~五寸前後で身幅頃合い、元幅に比して先幅が一段と狭く、踏ん張り心があり、反りは比較的深くつき、中切先の姿、いわゆる慶長新刀姿から寛文新刀姿に移行する過渡期の姿となります。
その後、石堂一派の多くの刀工が活躍した寛文前後は、刃長二尺三寸前後にて身幅・重ねとも頃合い、元先の幅差がややあり、反りが四~五分前後で中切先の、いわゆる寛文新刀姿が主流となります。
元禄ごろになると、やや先反りが加わり、中切先延び心となる姿に変化します。
おのおのの刀工の姿は、活躍年代に即応したものと考えてください。
・地鉄について
小板目肌・板目肌に流れ肌の交じったものなどが主流ですが、中には柾目肌に近いものもあります。地には映りが弱く現れ、しかも規則的となり、鎬地が柾目となる点が大切な見所です。
・刃文について
匂本位の丁子乱れで、おのおのの刀工によって特徴のある刃文を焼いています。
・帽子について
多くは小丸あるいはたるみ込んで先小丸などですが、多々良長幸や福岡石堂の是次・守次らのように特徴のある帽子もあります。
・彫物について
彫物はほとんどなく、守次にわずかに見られる程度です。棒樋も少ないです。なお後世、石堂一派の刀を無銘にして一文字に見せようと、鎬地の柾目を隠すために棒樋を刻したものはよく見かけます。
以上が石堂一派の一般的な作風ですが、次におのおのの刀工について詳しく述べることにしましょう。

・江戸石堂
光平…江戸石堂の中にあって先輩格であり、長幸に次いで上手な刀工です。姿は前述のように、寛永~正保にかけての姿が多いです。地鉄は板目に柾が流れて、やや肌立つものが多いです。刃文は丁子乱れで、大丁子などを交えて大模様で華やかに乱れ、焼刃に高低があります。そして、丸みのある袋丁子を見所としています。帽子は小丸か、浅く乱れて先小丸のものがほとんどです。(図①)
常光…二様あります。姿は寛文新刀姿が多いです。(一)光平に似た華やかな丁子刃、しかし相対的には刃文はこずみ気味となります。(図②)
(二)光平ほど華やかな丁子刃でなく、ややこせついた刃文(図③)帽子は浅く湾れて先小丸に返るものもありますが、乱れ込んだ帽子もよく見られます。
是一…板目が総体に強く流れて柾がかり、地沸付き細かな地景入り乱れ映り現れ、鎬地の柾が目立ちます。刃文は丁子乱れが総じて小模様となり、逆がかり、匂主調に小沸付き、刃中に金筋・砂流しの細かく入ったものが多く見られます。帽子は直に小丸が多いです。(図④)

・福岡石堂
是次・守次の作風はよく似ていますが、わずかの相違点を挙げると、是次の丁子乱れの頭は角張るのに対し、守次は丸みを持ったものが多く見られます。是次の方がより華やかな大逆丁子乱れが多いです。また、石堂一派全般に彫物のあるものは少ないのですが、守次は彫物を得意としており、簡素ながら締まった上手な彫り物があります。
次に、福岡石堂全般の特徴を挙げると、比較的反りが高く、姿の良いものが多いです。地鉄は板目が流れ心となったり、強く流れてほとんど柾がかった鍛えもあります。刃文は総体に逆がかるものが多く、まま鎬筋を越えるものもあり、純然たる匂出来ではなく、小沸付き、刃中に細かい砂流しを交えたり、「烏賊(いか)の頭」と形容される独特の逆丁子刃や、尖り刃が交じったり、同時に刃中に焼きの抜けたような丸い玉が入ることがあります。帽子は乱れ込み、一段と焼き深く、返りも長く焼き下げ、棟焼きがかるものもあります。(図⑤)

・紀州石堂
康広…寛永ごろの姿。地鉄は小板目が詰んで、肌に白け心があり、その中に黒く映りが出るものが多いです。刃文は匂出来の丁子乱れに焼き幅が一段と高く、刃中に足・葉があまり入らず、焼刃の出入りの落差はあまり目立たず、丁子に大小の変化をつけています。帽子は乱れ込んで浅く返るものと、たるみ心の両様があります。(図⑥)
紀州石堂には康広以外には為康がいますが、紀州在住時は康広同様の作風ですが、大坂移住後は互の目がかって沸づく丁子刃や濤瀾刃を焼いたものもあって、大坂新刀風の強い作風になります。
・大坂石堂
長幸…前期作の与三左衛門尉祐定写しと一文字写しの両様があります。共に匂口がよく締まって明るく冴え、尖り心の刃文を交え、帽子にも見所があります。すなわち、乱れ込んで先が尖り、やや深く返る独特の帽子となります。
・与三写し
姿も二尺前後と寸詰まり、先反りつき、鎬地を削った与三の姿を再現しています。地鉄は小板目肌詰み、地沸細かにつき、乱れ映り立ち、刃文は腰開きの複式互の目乱れに尖り刃交じり、小足・葉入り、締まって冴えています。そして、元から先まで同じ調子で焼いています。尚、石堂一派の末備前写しは、長幸以外には見られません。(図⑦)
・一文字写し
寛文新刀姿にもう少し反りの加わった姿が多く、まれに長寸のものもあります。刃文は重花丁子・尖り刃・小丁子・腰の開いた互の目などを交え、焼きに高低が目立たず、元から先まで平均して焼き高く、華やかに乱れるものが多いです。一文字風の刃文の中に腰開きの複式互の目を交えた、一文字と末備前の折衷的な刃文が大きな見所でもあります。(図⑧)
備中守橘康広…寛文新刀姿。地鉄は小板目肌に映りが立ち、鎬地柾、刃文は匂口の締まった焼き幅の広い華やかな丁子乱れで、総体に小模様となるところが見所です。帽子は小丸で返りがやや深くなるところや、鎺元の焼き出しも見所の一つです。(図⑨)
康広は作刀期間が長く、初二代あったことが考えられます。大坂時代の作刀は、大坂石堂として扱います。

・伊賀石堂
鎭忠…慶長八年紀の初代鎭忠(しげただ)の刀が金刀比羅宮に所蔵されていますが、作風は平高田そのものです。高田の地から紀州に赴き、紀州石堂との交流があってからは丁子刃に変わりました。鎭忠・鎭政には二代あり、伊賀名張の地において鍛刀しています。寛文新刀姿に、地鉄は板目肌がやや流れ、映りが立ち、刃文は匂本位の丁子乱れを焼き、石堂風です。現存する作品は少ないです。(図⑩)

・近江石堂
前回の解説で「近江石堂は新刀期の鍛冶でなく、室町期に近江国蒲生郡石塔村で鍛刀した鍛冶集団の総称」と説明しましたが、これは誤りでした。お詫びして、次のように訂正します。
『日本刀工辞典』に「初代一峯を近江石堂の一派とし、作品直乱又は乱刃」とあり、二代一峯を初代一峯の子、江戸にても作るとし、「その出来乱刃、初代同様のもの、又は石堂是一同様のものあるも、丁子刃を最も得意とする」とあります。
作風は、板目に流れ肌交じり、乱れ映り立ち、刃文匂勝ちに小沸の付いた丁子刃やや逆がかり、こずみ、刃中に細かい砂流しかかり、一見是一の作風に似るも、鎺元に短い直ぐの焼き出しがあり、帽子の返りも深いです。(図①)
〈参考文献〉『刀剣美術』『紀州の刀と鐔』『麗』ほか

(刀剣界新聞-第64号 冥賀吉也)

石堂派の作風

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