廃刀令(帯刀禁止令)とは明治9年(1876)3月28日発布の太政官布告第三十八号。旧武士階級の帯刀を禁じた法令。新政府が明治2年1月9日、江戸幕府から許可されていた農民や商人の帯刀を禁止したあと、間もなく制度寮撰修の森有礼は、同年5月27日、現在の国会にあたる公議所の会議に、第十二号議案として、
第一 官吏・兵隊之外、帯刀ヲ廃スルハ随意タルベキ事
第二 官吏と雖モ、脇指ヲ廃スルは随意タルベキ事
上二案を提出したところ、213名の議員全員によって、否決されたばかりか、それに反対する運動が全国的に巻き起こった。政府はそれを慰撫するため、森を免官した。しかし、政府としては森案に原則的に賛成だったので、翌3年11月14日付で、百姓・町人が長脇指を帯びて、通行することを、翌12月24日には、庶民が双刀を帯びることを禁じる、太政官布告を出した。
さらに同4年8月9日、脱刀勝手たるべしという脱刀令の布告を出した。「散髪、制服・略服脱刀共、可勝手事。但礼服ノ節ハ帯刀可致事」、というい布告で、華族・士族とも、平時は帯刀しても、しなくても勝手次第と、一見無意味にみえるが、その前月7月に発令された廃藩置県で、藩主と藩士の関係がなくなり、やがれ予想される廃刀令への伏線であった。
同3年10月23日付で、東京府の羅卒つまり警察官の帯刀を禁止した。大坂府でも6年5月になると、それに倣った。それより2か月前には、天皇が親臨して政務を執る正院に出仕の矢上勝之が、刀剣類を鋳つぶして、軍艦や鉄道を造るべし、という大胆な建白書を、政府に提出した。こうして廃刀の気運がしだいに高まってきたので、陸軍卿の山県有朋は、明治8年12月7日付で、軍隊のほか廃刀すべし、という上申書を、太政大臣の三条実美に提出した。それが採用されて、翌9年3月28日、太政官布告第三十八号をもって、
「自今、大礼服着用竝ニ軍人及ビ警察官吏等、制規アル服著用ノ節ヲ除クノ外、帯刀被禁候条、此旨布告候事。但、違犯ノ者ハ其刀可取上事」
という、いわゆる廃刀令が、三条太政大臣の名で公布された。しかし、士族のなかには、これに対する反対論が多く、同9年10月、相次いで起こった神風連の乱・秋月の乱・萩の乱、さらに翌10年2月西南の役など、いずれも直接間接に、この廃刀令が誘引になっていた。

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