日本刀の刀狩り
刀狩りとは施政者が民間の刀槍類を没収すること。
柴田勝家の刀狩り
越前北荘城主:柴田勝家は天正8年(1580)、国内の一揆を平定し、平穏になったのを国実に、武器・武具類は無用になったから差し出せ、その代わり、それで農具を造って交付する、隠匿して提出しないものは処罰する、と触れを出した。百姓たちが刀槍・鉄砲はもとより、甲冑・弓矢・鞍の類まで提出すると、上質のものは軍用に供し、残りは希望者にそれで作った農具、特に卑賤な者には銭を与え、さらに船橋用に鎖などを造り、民衆の便を図った。
豊臣秀吉の刀狩り
農民が刀槍・弓矢・鉄砲などを執って、一揆を起こすことを予防するため、天正16年(1588)7月8日付で、次の武器没収令を発布した。
「一、諸国百姓等、刀わきざし・弓・鑓・てっぱう、其外武具のたぐひ所持仕候事、かたく御停止。其子細は不入だうぐ、あひたくはへ年貢所当を難渋せしめ、一揆を企て自然給人に対し、非儀之動をも候族、勿論御成敗あるべし。然ハ其所の田畠令不作ついゑになり候之間、其国主給人代官等として、右武具悉取あつめ可致進候事。一、右取をかるべき刀・わきざし、ついゑニさせらるべき儀にあらず。今後大仏御建立候釘・かすがいに被仰付べし。然ば今生之儀は不及申、来世まで百姓相たすかる儀に候事」
これには、武器を隠匿して提出しなかった者への罰則は記されていないが、この没収令をうけて、前田利家が同年十一月六日付で出した布告には、「若くして置においては、後日聞出候ば可成敗候」とある。さらに農民の代表を呼びだし、誓紙までさせたので、江沼郡だけでも刀1,073、脇差1,540、槍160、小ガタナ700、笄500本集まったという。秀吉は没収した刀槍・鉄砲を鋳潰して、大仏の釘、つまり方広寺建築用の釘にした。
それだけでは使い切れないので、朝鮮出兵用の安宅船、つまり大型軍船建造用の釘にも使うことにして、豊臣秀次に、「大仏にあつめ置候刀かりの鉄共、右之船に可召遣候。中国にても可召遣候間、注文早々可差超事」と指令している。なお、石田三成は大坂・伏見両城の忍び返しを、没収刀で造り秀吉から褒められた。秀吉の刀狩りの効用は以上のほか、武士と農民の身分固定にも貢献することになった。
佐賀の刀狩り
明治7年、江藤新平の乱のあと、官憲は佐賀の士族の家を、箪笥の中まで調べて刀剣類を没収した。
昭和の䙥立つ28日朝、米軍先発隊が厚木飛行場に進駐してくると、兵士は日本刀に対する恐怖と憧れから、勝手に日本刀の掠奪を始めた。8月30日、マッカーサー元帥到着後も、ますます激しさを加えたので、連合軍最高司令部との交渉のため設けられた、大本営連絡委員会(有末期間)では、たまりかねて司令部の武装解除担当官:バーゲン中佐に、武器は日本側で収集し、米軍へ引き渡すから、兵士の掠奪は止めるよう申し入れたが、掠奪は止まらなかった。
9月3日、つまりミズリー艦上の降伏文書調印の翌日、河辺正三参謀次長は、サザーランド参謀長に対し、日本刀は単なる武器ではない、美術品である旨を強調した結果、日本刀の件は有末機関と交渉することになった。それに基づいて交渉してりう間も兵士の日本刀掠奪は止まらなかった。9月6日、東日本を占領していた第八軍より、軍刀ではない将校の刀剣は所持許可する、との連絡があり、翌7日、キャドウェル憲兵隊に申し出れば、所有することを許可するものの、米軍が指定する場所に保管し、家庭での保管は許可しない、と通告してきた。
9月11日、米軍最高司令部から、日本刀は昔よりの家宝だけ残し、購入したものは没収する、という命令が出て、一般人の刀剣は警察署に提出することになった。そして、12日、サザーランド参謀長は、個人の所有を含むすべての刀剣の破壊を要求してきた。驚いた有末機関長はサザーランド参謀長をたずね、没収には家宅捜索もやるのか、と質問したところ、将校たちの所持刀はしても、一般人のものはしない、と言明したが、しかし実際には一般人の民家の屋根裏まで捜索が行われた例もあった。
さらに電波探知機をもってきて、もし発見されたら、沖縄に重労働にやられる、という噂が全国的に流布された。なお、日本人同士の密告が多く、そのため発見され、佐賀県では実際に沖縄に重労働にやられた例がある。こうした事態を憂慮して有末機関が改称した陸海軍東京連絡委員会では、執拗に日本刀の没収の緩和を訴え続けた。
それが奏功して、9月22日、米軍の軍政部は、日本刀の接収は10月末日までに完了せよ、記念品などの特別な事情のある日本刀は、破棄の対象からはずす。さらに9月25日には、日本刀の接収は日本の警察署にやらせる、と譲歩してきた。その後も陳情の手を緩めなかったところ、10月24日、最高司令部から、一般の善意のある日本人が所有する美術品としての日本刀は、審査のうえ保管を許可する、という寛大な指令が寄せられた。
これによって以後の日本刀処理は、日本の内務・文部両省の手に移った。しかし、その後も接収した日本刀の米軍への引き渡しが遅い、と厳しい督促が続いた引き渡した日本刀は、米軍の手によって海洋投棄やガソリン焼却などが行われた。
21年6月3日付の勅令で、それまで米軍の手にあった日本刀の審査権と所持許可権が、日本の内務省にゆずられ、内務大臣の任命した刀剣審査委員会が発足することになった。その審査委員が全国で60余名任命され、美術品してと認めたものには所持許可証が与えられた。古来の日本刀の鍛法によったものは、原則として許可された。それ以前に米軍に接収されたものは、21年3月までに、北海道から岐阜県までのものは第八軍、近畿・中国地方のものは第六軍、九州・四国地方のものは第五海兵隊が保管していたが、やがて東京:赤羽の旧工兵隊跡にあった第八軍兵器庫に集められた。
そして、審査委員によって美術品と認められた数千本は、上野国立博物館に搬入され、不合格刀は米軍の手によって廃棄された。進駐将兵の手によって、米国その他に持ち去られた日本刀の数は、万をもって数えられ、その中には国宝や重要美術品もかなり含まれていた。平和条約締結後、豊後正宗・備前国宗・長船兼光・相州秋広など、重要美術品級以上のほか、相当数の日本刀が里帰りしている。没収され、外国へ渡った日本刀が、外国の日本刀愛好の動機をつくったのは、皮肉ながら受け止めざるを得ない。