鐔や小道具といった刀装具鑑定書の歴史は、桃山期になって、後藤家が先祖の遺作の鑑定を始めたのを嚆矢とする。「後藤上代目利秘伝書」の序文に、後藤祐乗のじだいを「文保ノ比」とし、それから「凡三百年のよハひなり」とあるから、この秘伝書は、慶長(1956)の末年ごろの著作となる。すると、後藤家の作品に対する鑑定は、慶長のころにはすでに確立されていたことになる。
しかし、後藤家以外の作品に対しては、それよりずっと遅れで、元禄7年(1694)初版の「古今和漢万宝全書」に、後藤家の作品を詳記したあとに、簡単に鐔の形の図と、著名工の名を28ほど掲げたに過ぎない。延享(1744)ごろの著作と推定される「刀盤賞鍳口訣」も、著名工の名はそのままで、鐔の図を殖しただけである。天明元年(1781)出版の「装剣奇賞」で、初めて作風の説明がなされたが、それも美辞麗句を遣った抽象的なもので、鑑定に資するには程遠いものだった。
天保10年(1839)出版の「金工鐔寄」は、人名辞典であって、鑑定には一切触れていない。作風の具体的な説明、つまり鑑定法が説かれるようになったのは、明治維新後、それも明治35年、「肥後金工録」が公刊されるまで待たねばならなかった。さらに全国の鐔工・金工の作品に対する鑑定法は、大正2年、「本邦装剣金工略誌」の出版まで待たねばならなかった。秋山久作には纏まった金工書はないが、明治から大正にかけて時折、雑誌に寄稿していた鑑定法は、その後の研究の基礎になった観がある。そのあとを追って、小倉惣右衛門や川口陟らが、金工の研究を本格化して行っている。

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