道誉一文字
道誉一文字(どうよいちもんじ)
- 御物
- 太刀 銘 一 (名物:道誉一文字)
- 宮内庁蔵
- 長さ 2尺6寸4分(79.99cm)
- 反り 1寸2分5厘(3.64cm)
道誉一文字は、「享保名物帳」に所載する備前福岡一文字作の太刀で、佐々木道誉が所持した佩刀と伝えられる。佐々木道誉は導誉とも、名を高氏といい、初め北条高時に、のちに足利尊氏に仕え、近江国はじめ六カ国の守護大名となり、権勢をほしいままにしたので、諸将から排撃された。応安6年(1373)に68歳で没する。道誉一文字はも領国の近江国朽木谷にあったのを、召し上げたものである。その後、道誉の子孫は、六角・京極の両家にわかれ、近江国を分割、永く領有していたが、織田信長によって、滅亡の淵に突き落とされた。道誉一文字は室町時代後期の天文(1532)の頃、近江国の朽木谷にあった。朽木谷とは現在の滋賀県高島郡朽木村の地のことで、ここには鎌倉時代の承久(1219)のころから、佐々木氏の庶流であった朽木氏が居を定めていた。享禄元年(1528)、将軍:足利義晴は京都の乱を避け、朽木稙綱の許に身を寄せて3年も長きにわたり滞留していた。その後も朽木家は室町幕府の申次衆として、将軍から厚遇された名家であるので、そのころ道誉一文字は、朽木家の所蔵だったとみえる。
その後の経過は明らかでないが、江戸期になると、徳川家康が入手したとみえ、家康の孫で越前福井藩主:松平忠直の所持となり、その子である光長に伝わったのだが、光長が「越後騒動」を起こしたので、天和元年(1681)に流罪になった。そのあと、後西天皇の第二皇子で、有栖川宮家三代:幸仁親王の所蔵となる。貞享元年(1684)、有栖川宮家から刀剣鑑定の権威であった本阿弥家にきて、12代:光常は備前物としては破格の代金子百枚の折紙がついた。相州物は一般に代付けの高い傾向にあり百枚、あるいはそれを超える代付けも稀に見受けられるが、備前物で百枚の代付けのついたものは道誉一文字と長船光忠の2振が著名となっている。本阿弥家による折紙の代付けも最も権威の高いものは9代:光徳より13代:光忠までの上五代によるものが別格となっている。
その後、どういう経緯であったのか、尾張徳川家の蔵刀となる。元禄11年(1698)、5代将軍:綱吉が尾張藩3代藩主:徳川綱誠の邸に訪れることになった。その際の将軍への献上刀として用意するために、尾張家から奥州南部家が所蔵していた名物「亀甲貞宗」の譲り渡しを依頼した。南部家が快く譲渡を承諾してくれたので、尾張徳川家からは、道誉一文字の刀と綾小路行光の短刀をその返礼として南部家へ贈った。
その後、南部家の重宝として「享保名物帳」にも収蔵された。昭和3年、岩手県で陸軍特別大演習があり、行幸された昭和天皇に南部利淳より献上され、それで現在も「御物」になっている。
名物帳には「松平伊予守殿 備前池田家(池田綱政) 道誉(一文字)銘有 長さ二尺六寸四分 代金百枚
昔佐々木道誉老所持 貞享元極」
奥州盛岡南部家「内史略」 享保13年
一 道誉一文字 御太刀 二尺六寸四分(約80.0cm)
白鞘 貞享元年 代金百枚折紙 尾張中納言綱誠公被進 本阿弥公義へ書上候也
形状は、鎬造、庵棟、腰反高く踏張あり、中鋒猪首ごころとなり、豪壮な太刀姿である。地鉄は小板目肌約み、乱映立つ。刃文は大丁子乱、重花蛙子、袋等交り、匂口締りごころに足・葉頻りに入り、小沸つき、総体に砂流かかり金筋処々に入る。帽子は、表裏乱込み小丸に返る。茎は生ぶ、先栗尻、鑢目筋違、目釘孔2、鎺下中央に「一」と銘がある。
鞘書に「道誉一文字御刀 尾張中納言綱誠卿ヨリ被進」と記されている。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
(法量) | |
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長さ | 2尺6寸4分(79.99cm) |
反り | 1寸2分5厘(3.64cm) |
元幅 | 1寸0分8厘(3.27cm) |
先幅 | 8分(2.37cm) |
元重ね | 2分5厘(0.76cm) |
鋒長さ | 1寸2分(3.64cm) |
茎長さ | 7寸2分5厘(22.12cm) |
茎反り | 1分強(0.3cm) |