福島光忠(ふくしまみつただ)

  • 指定:国宝
  • 刀 (金象嵌銘)光忠 光徳(花押) (名物:福島光忠)
  • 長さ 2尺3寸9分(72.5cm)
  • 反り 7分9厘(2.39cm)

 

福島光忠は、「享保名物帳」に所載する、備前長船光忠作の太刀で、刀号はもと福島正則の佩刀であったことに由来する。寛永元年(1624)7月13日、正則が信濃国高井野で64歳で歿すると、正則の四男:正利が父:正則の遺物として将軍:徳川家光に大森義光の脇差とともに献上した「大光忠」というのは、福島光忠と同一であろうと推測されている。ほかに大御所:徳川秀忠へ正宗の刀、青木国次の脇差、甲府中納言:徳川忠長へ切刃貞宗の刀、吉光の脇差を献上している。
その後、徳川将軍家の家光より水戸藩初代藩主:徳川頼房が拝領し、その七男であった宍戸藩初代藩主:松平頼雄に譲り、さらに兄の雄利(頼房の六男)から頼道(雄利の長男・頼雄の甥で養嗣子となる)へ伝わるも、宍戸藩松平家にあったときに時期については不明ながら焼失してしまったので水戸徳川家でも伝わっていない。
三代将軍:家光より頼房への下賜された光忠の刀とは、寛永4年6月28日と寛永13年10月12日に2振の記録があるのでその何れかであろうか、四代将軍:家綱より頼房へ下賜された光忠の刀は記録が見当たらない。
「享保名物帳」が編集されていたころ、常陸国茨城郡宍戸(茨城県西茨城郡友部町)の宍戸藩二代藩主:徳川頼道のもとにあった。
刃長:二尺三寸七分五厘(約72.0cm)、表裏に樋をかく、在銘、金三十枚の折紙付き。

名物帳には「水戸筑後守殿 福島光忠 銘有 長さ二尺三寸七分半 代金三拾枚
昔福島左衛門太夫所持 表裏樋有之」
水戸筑後守とは、宍戸藩二代藩主:徳川頼道

「詳註刀剣名物帳」 羽皐隠史:著
水戸筑前守殿(水戸徳川侯爵家)
福島光忠 銘あり長二尺三寸七分半 代金百三十枚
昔福島左衛門太夫所持表裏樋あり。
この水戸”筑前守”殿とあるは誤写なり水戸殿と三字記せし本あり、今村長賀本にも三字とすべしとあり。
福島左衛門太夫は正則の事なり、某子爵の云福島光忠は織田信長か光忠の刀廿五口集めたる其一刀なり福島正則之を佩びのち徳川将軍家に入り水戸威公(頼房)に賜ふ其子頼雄に譲られ弟の雄利に伝り同家にて焼失すと云ふ、さすれば今水戸家にはあらぬなるべし此焼失 月定かならぬ事なり。

「図説名物帳」を著された辻本直男先生は、後年に「名物の福島光忠」と題された補稿を記されている。
『昨秋(昭和59年)開催の「国宝備前名刀展」に展示された一口に、光忠の刀(光徳象嵌)があった。これは名物の福島光忠ではないかーと言う話が出て調べてみることになった。
その刀についての名物帳の記載は「昔福島左衛門大夫所持、表裏樋有之、銘有、長さ弐尺参寸七分半、代金参拾枚」とあるに過ぎない。
先年「図説名物帳」を編集する時に、当時所有者としてあがっている水戸筑後守を宍戸藩主の徳川頼道とまではつきとめながら、「銘有」にこだわって、それ以上の深追いをせず現所有者を不明の儘にしておいたのであった。
左衛門大夫の福島正則は秀吉麾下の同僚加藤清正(彼は一歳若い)が起伏に富む華々しい生涯を送ったのに対し、寧ろ地味な一生をすごし、その晩年は殊に悲劇的であった。即ち居城の広島を修築した廉で将軍秀忠の忌諱に触れ、所領没入の上、信州の川中島に流されたのであり、5年後の寛永元年7月に64歳で同地に没した。遺骸は小布施町の巌松院に葬られたが、家臣が幕府の検使の到着を待たず荼毘にふしたが為に、子に与えられていた小額ながらもの所領を収公され、奉祀料として僅かに三千石を給付されるに留まった。その節、子の正利は正則の遺物を将軍家光に献上したのであり、その中に「大光忠」の刀と大森義光の脇指が含まれていた。
家光は叔父に当る水戸藩主の頼房邸を度々訪れて歓を交わし、刀を贈答し合っているが、寛永4年の6月の時には光忠の太刀と景光の脇指を頼房に贈っている。その光忠が3年前に正則の遺物として献上されたこの刀と考えてよい様だ。
さて、頼房は寛永元年の7月に没し、水戸本家は子の光圀が継ぐ。それに先立ち長兄の頼重は常陸国の下館(五万石)に、弟達の頼元は額田(二万石)に、頼隆は府中(石岡)(二万石)に封ぜられた。そして七男の(一学)頼雄は天和2年の2月に宍戸(一万石)で一家をたてることになるが、その際、光圀はそれを祝して光忠の刀を譲与したのである。分与の禄高は一万石に過ぎなかったが光忠の刀はその不足を補うに十分であった。爾来同家の重宝として頼徳の代に至った。
この刀の移動の経緯について述べると、光忠に殊のほか魅せられて三十余腰を集めたと言われる信長の所蔵の一口であったが、家康へ贈られ、家康から十一男の頼房へ伝えられると言う風に語られていた(本間順治編「名刀図譜」)。
私もこれまではそれに従って来たが、今回の調べで、初元は福島正則であること、また頼房へは家光からであることが明らかになった。その結果、これは名物帳にある福島光忠だと認めてよいと思われるのである。寸法は二尺三寸九分余あって、名物帳の記述より二分ほど長い。そして象嵌銘であって、銘有とは相違するなどの点はあるにしても。かつて本誌の56年3月号で光徳の象嵌銘を語る時に本刀に触れ、水戸光忠と称しては如何と記したことがあるが、それは、この機会に取り上げて置きたい。また「国宝備前名刀展」の図録目録の、この刀の伝来に関する記事の部分は本誌によって御訂正願いたい。私自身も「図説名物帳」の改訂版を出す時には、この刀には挿図を添えて然るべき場所をあたえなければならないのである。
なお右に頼徳の代までと書いたのは宍戸家を離れる次第について触れたかったからである。
幕末の水戸藩の天狗(攘夷派)と諸生(保守派)の良党にわかれ、国の政策をめぐって激しく争われたが、攘夷延期を不満とする天狗党は武田耕雲斎を盟主として元治元年3月に筑波山に立て籠もった。そこで幕府は頼徳に鎮定を命じた。彼はこの刀を佩いて出陣したのである。ところが事は志と違い、かえって彼等を助ける立場にかわり幕命に反することになった。その結果追討を受け、切腹を命ぜられるに至った。それによってこの刀は不祥の品とされ、結果同家を出たのである。売払いの依託を受けた剣術使いの天野某から刀商町田平吉へ、町田から岩崎家へ、同家から福地源一郎(桜痴)へ、福地から清田直へ納まったのである。
値段は最初の八十金から次第にエスカレートし最後は六百金になったと言う。清田は熊本藩士で細川家を代表して十五銀行の常務取締役をつとめた人で、当代切っての愛刀家であった。彼曰く「廃刀の今日、大金を投じてかような名刀を手に入れるのは子孫に伝えたいと心願するからである」と。
水戸家では「水戸家では然るべき名刀があれば、それと取替えて貰えないか」と言う。清田はそこで一文字助光の太刀を指名した。これは阿部豊後守忠秋が将軍家光の目の前で隅田川の濁流を馬で泳ぎ切り、その勇を賞して賜ったという著名なものである(国宝になっている)。値段の点で水戸家ではそれを買上げきれず、結局交換の話は沙汰やみに終った。直は明治43年の5月に72歳で没したが、この太刀は近親の手に捧げられて葬儀の列につらなったのである。
彼はどれ程にかこの刀に対して深い敬愛の情を注いでいたことであろうか。この話はそれを伝えて余す処がない。刀もまた彼の死を心から傷んだに相違なかろう。戦後清田家を出て現所有者の田口氏(故儀之助→輝雄)の許に移った。
この刀の出来栄えは、長さ2尺3寸9分(72.5cm)、反り7分9厘(2.39cm)、先幅8分3厘(2.51cm)、元重ね2分5厘(0.7cm強)、切先長さ1寸2分6厘(3.82cm)、茎長さ5寸3分8厘(16.3cm)。
鎬造、庵棟。大磨上げ身で、反りはやや浅くなる。身幅は元先共に広く、切先は猪首状である。腰元は少し踏張りを欠く。表裏に棒樋を掻き通している。重ねは厚く、手持ちは重い。
地は大板目ながれで、よくつんでいる。下半には棒映りが、上半には大映りが並ぶが、いずれも淡い。刃文は匂深く、出入りの激しい大丁子乱れでよくつみ、盛んに丁子刃が交じる。足よく入る。切先の刃も出入りが多く小乱れてこずみ、先は焼詰め風の小丸。
大磨上げの茎の中程より下の指裏に「光忠」と、また指表の同じ位置に、「光徳(花押)」と金象嵌銘をいれている。
この刀は、大磨上げ身に本阿弥光徳が「光忠」と鑑定し、左様の金象嵌銘をいれさせたものである。光忠は長船派の元祖と目される名工で、その作風には福岡一文字派に学び、それから抜け出しているところが見受けられるが、地鉄にはねっとりしとした美しさが加わり、刃文は丁子刃も間あきの互の目風もやいている。この刀は刃文で言えば、一文字派の中では吉房が一番似ているように思われる。なお、これの姿や形には鎌倉中期一般の豪快さが認められる。
光徳の金象嵌銘は草書体で書かれており、それは楷書体のものより後れているので、この刀は慶長末年頃にいれられたものであろう。本誌の56年3月号の上記拙稿を参照いただきたい。

光徳の金象嵌銘の光忠の刀は永青文庫にもある(国宝)。
光忠 光徳(花押) (指裏)
生駒讃岐守所持 (指表)
銘文は右の如くであり、長さは2尺2寸6分である。姿形や地刃の出来はこの刀によく似る。また樋を掻き通す点も。これの象嵌をいれたのは慶長15年の3月のことであって時期はほぼ同じ。

本阿弥光忠極めの金象嵌銘の刀は東京国立博物館にあってこれは重要文化財。銘文は次の通り。
光忠 (指裏)
本阿(花押) (指表)
長さは2尺2寸9分7厘で、姿、地刃、彫物など作風は右の刀と似る。但し切先の刃は尋常で浅くのたれこむ。刀剣名物帳はこの光忠が幕府に提出したものである。』
(刀剣美術336号 昭和60年1月発行)

宍戸藩松平家は、天和二年(1682)、御三家の水戸藩初代藩主:徳川頼房の七男:松平頼雄が水戸藩二代藩主:光圀(頼房の三男)より一万石を分知され、宍戸に陣屋をおいた。藩主は宍戸に居住せず、代々江戸屋敷にいて、宍戸の陣屋で年貢を取り立て、行政・警察は水戸藩の役人が担当した。
幕末、水戸藩の天狗党騒動に巻きこまれる。元治元年(1864)3月、天狗党一味が筑波山に挙兵した。幕府は、九代藩主頼徳に、水戸藩の名代として鎮撫を命ずるが、しかし頼徳以下の宍戸藩兵が天狗党に同調し、幕府に敵対したとして、10月、頼徳に切腹の命がくだり、その領地が没収された慶応4年(1868)2月、朝命により前藩主:頼位が復活し立藩した。この間宍戸は無警察状態だったという。いま友部町の旧宍戸町役場に歴史民族資料館が建つが、ここに陣屋がおかれていた。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺3寸9分(72.5cm)
反り 7分9厘(2.39cm)
元幅 1寸9厘(3.3cm)
先幅 8分3厘(2.51cm)
元重ね 2分5厘(0.7cm強)
鋒長さ 1寸2分6厘(3.82cm)
茎長さ 5寸3分8厘(16.3cm)

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