布都御魂(ふつのみたま)

韴とは断音、つまり物を断ち切る時のプツリという音で、刀の霊威をたたえた名称である。布都御魂剣・布留御魂剣、または神霊視して、布都御魂神・甕布都神・佐土布都神ともいう。今日、韴霊剣と称するものも、それを祀った神社も複数存在する。

大和の石上神宮
神武天皇が紀州牟婁郡熊野に上陸された時、熊野山の荒ぶる神の毒気にあたり、天皇はじめ全軍が病み臥した。そこに高倉下という村人が、一振りの剣を持参して、天皇に献上したところ、天皇のみならず全軍の病気が、たちどころに快癒した。
その剣は、高倉下が夢のお告げて授かったものだった。その前夜、夢のなかで、天照大神が武甕雷神に、汝が行って葦原の中つ国の騒乱を鎮めよ、と仰せられた。私が行かなくても、平国の剣をお下しになれば、鎮まりましょう、と武甕雷神が言ったので、天照大神はただちに平国の剣を、お下げ渡しになった。武甕雷神は高倉下をよんで、韴霊剣という霊剣を、そなたの庫の裏におく。取って神武天皇に奉れ、というところで夢は終わった。翌朝、庫を開けてみると、庫の板張に突きささっている剣があった。それを神武天皇に献上した、という伝説のある霊剣である。
神武天皇は大和の橿原に、都を定められた時、宇麻志麻治命に命じて、殿内に奉祀せしめた。崇神天皇は伊香色雄命に命じて、現在の奈良県天理市布留の高庭に、神殿を造り、この霊剣をご神体として祀らしめた。これが石上神宮の起源である。崇神天皇は太刀を奉納。天武天皇は忍壁皇子を遣わして、霊剣の手入れをなさしめた。なお、素戔嗚尊の蛇韓鋤剣、百済より献上の七枝刀を奉納するなど、朝廷の尊崇は篤かった。
桓武天皇は都を山城国長岡に移すと、この霊剣ほか多くの兵仗を、長岡に移した。ところが、その武器庫が故なくして倒潰したり、天皇が病気になったりした。それは移管したのが神の怒りに触れた、という女巫の神託があったりしたので、再び元のあった石上神宮に返還された。そのとき元の神殿は撤去されていたからであろう、そこの地下に埋蔵され、そこを禁足地とした。
明治7年石上神宮の宮司:菅政友は、教部省に禁足地の発掘をすることを申請し、許可されたので、同年8月20日、発掘したところ、刃長2尺2寸2分(約67.3cm)、平造り、少し内反りの環頭の太刀、つまり韴霊と思われる古剣が出土した。これを内務省に提出、それとそっくりに木型が造られた。それが皇太后大夫だった故香川敬三伯爵家にあった。それを借りて、大正5年には宮本包則、同13年、近江守胤明の手により模造刀が謹作された。後者は明治神宮へ奉納された。出土刀は内務省から返還されると、石上神社のご神体として奉祀された。

常陸の鹿島神宮
ここにも、戦後、新国宝になった韴霊剣がある。しかし、これに関する鹿島神宮側の記録でも、年代の古い「鹿島神宮社例伝記」には、記載がないが、時代の下がったものには、豊韴霊という名で記載されている。「鹿島神宮伝記」になると、垂仁天皇が大和の石上神宮に、太刀一千振りを奉納された時、鹿島神宮へ韴霊剣は返還された、と具体的に述べている。なお、「神皇正統記」にも、韴霊剣は初め石上神宮、その後に鹿島神宮に移ったとある。
鹿島神宮には潮神社という摂社がある。これは、韴霊剣が初め高倉下の庫の板張りに突きささっていたので、昔は板宮と呼んでいたのが、潮宮と書くようになった。また、高倉下が発見したのは朝だったので、一名、朝宮ともいうなどと説明されている。鹿島神宮に返還された、という垂仁天皇の時より、はるか後世にできた「古事記」に、韴霊剣は石上神宮にあると明記されているから、返還説は誤りということになる。その原因は、偽書と見られている「旧事本紀」に、豊布都神つまり韴霊剣と、武甕雷神とを同一、とした誤解によるとされている。
時代が下がり江戸時代にはいってから、ときの八代将軍:徳川吉宗がこの霊剣をその目で見ることを希望したので、久世大和守にその旨を、鹿島神宮に伝えさせた。神宮側が、これは御神体だから、といって断ると、寺社奉行所の与力を派遣する、と言ってきた。神宮側では、御神体の移動は深夜、暗闇の中において行うという慣例になっているのだとと偽り、手探りでしか調べさせなかった。幕末に水戸斉昭が、霊剣の模造をしたい、と申し込ませたが、これも断ったという。
しかし、実際はそんなに神格視していなかった。大正になってから、当時の国宝調査委員が調査のために下調べに行ったところ、収蔵庫のガラス棚のなかに、馬の鞍などといっしょに置かれていた。委員たちもあきれて、刀箱のなかに厳重に保管するように注意したほどである。
拝観を幕府に断ったにもかかわらず、「武家名目抄」の編集をした中山信名は拝見して、刃長七尺五寸六分(約229.1cm)、中心の長さ一尺三寸三分(約40.3cm)、鎺もとの身幅二寸一分(約6.4cm)、と記録している。高瀬羽皐が大正3年、拝見した時の記録では、刃長七尺四寸(約224.2cm)、中心の長さ一尺八分(約32.7cm)、鎺もとの身幅二寸一分(約6.4cmと)なっている。
昭和29年、研ぎにかけられ、翌年国宝に指定された。その時の計測によると、刃長は七尺三寸九分(約224.0cm)強、中心の長さは一尺七分(約32.7cm)強、鎺もとの身幅は一寸三分八厘(約4.2cm)強となっている。
剣形は切り刃造りの直刀で、地鉄に板目肌の詰まった部分と、ひどく荒れた部分とある。それから見ると、中心を除いても四か所ぐらいで継ぎ合わせたもののようである。刃文は腰刃で始まり、先は小乱れが小湾れ風になっているが、刃文の駆け出した所もある。激しい魳切先の形状になり、帽子は掃きかける。茎は生ぶで、目釘孔は一個で中心尻に穿たれている。
拵えは、柄も鞘も黒漆塗りで、獅子を平文で描いている。金具はすべて金銅製で、唐草の透し彫りになっている。鐔は小型の長木瓜形、透し彫りになっている。拵えは正倉院の金銀鈿荘唐大刀に似ているが、刀身の出来は正倉院の蔵刀より劣る。超特大で鍛錬の難しいことを勘案しても、神武天皇時代のものではない。

河内国古市郡の杜本神社
ここにも韴霊剣と伝承された古剣が二振ある。ただし、これを十六山家蔵としたものもある。片刃と両刃と二様あって、長さはともに一尺七寸六分五厘(約53.5cm)で、柄は共柄になり、凹凸があって、頭は環になっている。形式からいえば、鹿島神宮蔵より古い。石上神宮蔵に似ているが、それより少し古い感じである。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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