出雲永則(いずもながのり)

  • 位列:古刀中上作
  • 国:出雲国(島根県-東部)
  • 時代:室町時代前期

 

出雲永則は吉井清則の子で、作品は室町時代前期の永享頃より長享に至るという。備前国吉井より後に出雲国へ移る。作品は短刀または平造の脇指が多く、刃文は小互の目が揃い、または直刃を焼く。「永則」「備前国吉井永則」などと銘する。
出雲国は山陰道の一国で、今の島根県東部となる。天叢雲剣の発祥地で、「延喜式」によれば、毎年横刀十振を貢納する定めになっていた。出雲は鉄の産地でありながら、刀工はあまり育たなかった。吉野期になって隣国の備前国から吉井鍛冶が移住してきた。出雲道永とよばれる一群がそれである。道永という法名の主については、清則説、吉則説、長則説、永則説などあって、定説はない。その初祖や年代についても、正和(1312)ころの盛則説、至徳(1384)ころの永則説、応永(1394)ころの吉則説、嘉吉(1441)ころの清則説などあって、一定しない。正平17年(1362)作の真則に、「吉井住」と「雲州住」とがある。この年には、山陰の雄:山名時氏が備前・備中を攻略している。すると、征服者の時氏が真則を吉井から、雲州に連れ帰ったが考えられる。
「雲州住」と切ったものの初見は、正平17年(1362)のようだから、道永派の移住をこの時と推定することもできる。なお、盛則や永則の父または師として、雲上の名をあげたものがある。その雲上の名をあげたものがある。その雲上は権兵衛尉と称し、出雲から備前へ修行に行ったとも、逆に備前生まれで出雲に移住したもので、則包同人ともいう。雲上の遺跡と伝えられるところが、島根県能義郡広瀬町にある。これは出雲雲上のことのはずである。つぎに、出雲道永の居住地と伝える所が、広瀬町岩坪と、その北隣の八雲村岩坂とにある。広瀬町には、鎌倉期から有名な富田城があったから、出雲道永派は富田城に属する刀工だったことになる。この派の作風として豆を並べたような丸い互の目乱れ、つまり道永乱れが有名である。

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