実休光忠(じっきゅうみつただ)

  • 太刀 銘 光忠(名物:実休光忠)
  • 長さ 2尺3寸(69.7cm)

 

実休光忠は「享保名物帳」焼失之部に所載する三好之康入道実休が所持した備前光忠の太刀で、もと近江国甲賀郡三雲城主の三雲対馬守定持が所持した。のち愛刀家の三好義賢入道実休が入手して、同家では三雲光忠とも呼んでいた。実休が永禄3年(1560)3月5日、和泉国南郡八木の久米田寺において、敵の放った流れ矢に当たって陣没してしまったので、敵将:畠山高政がこれを戦利品として分捕った。高政はのちに織田信長に属したので、おそらくは信長に献上したのか信長の有に帰した。たいへんな大業物という評判の太刀だったので、信長は岐阜のきりの馬場で、自らその切れ味を試した。
天正8年(1580)2月22日、天王寺屋宗久は京都において実休光忠を拝見する機会を得た。信長はあるとき堺の豪商らを安土城に呼び寄せ、自慢の光忠二十五腰を披露した。刀の目利きと評判が高い木津屋に、実休光忠はこの二十五腰のうちのどれであるか、当ててみよ、と言った。すると木津屋がそのなかから一振りの太刀であるとピタリと当てると、信長が不審がって、その理由を尋ねた。木津屋は、実休が最期のとき、根来法師の往来左京の脛当てをその太刀で払ったため、切先の刃が少しこぼれた、と聞いておりました。話の通りにこの太刀にも切先に刃こぼれがあります故、と答えたという。
天正10年(1582)信長が本能寺で明智光秀に襲われたとき、自らこの太刀をもって奮戦したのか、刀身には18ヶ所もおよぶ切り込み傷がが刀身にできた末、信長と共に炎に包まれて焼け身となった。のちに豊臣秀吉は信長の形見として、これを刀鍛冶に焼き直しさせて修復し、自らの腰に佩用したともいう。しかし、大坂城では「七之箱 下之御太刀」と豊家腰物帳の最後に記載されているから、秀吉自らが佩用説は疑念が残る。大坂落城後、行方不明となる。
刃長二尺三寸(約69.7cm)、刃文は沸えの強い烈しい出来で、元来は大房を主体とした丁子乱れ、物打ちは長船物らしくやや寂しい小乱れ出来であったという。本能寺の変で焼け身となり秀吉の命により焼き直したあとは、「光悦刀譜」に所載する押形のように、腰元から先端まで刃文の調子と焼刃の高低が同じような丁子乱れの出来となった。生ぶ茎、目釘孔のやや上に「光忠」と二字銘がある。

名物帳には「信長公御物 実休光忠 銘有 長さ弐尺参寸 無代
三好実休所持。表裏樋、切込拾八有。本能寺にて焼る。秀吉公焼直し被仰付御指(し)に被成。

「豊臣家御腰物帳」の「御太刀御腰物御脇指 太閤様御時ヨリ有之分之帳」(慶長6年)
七之箱 一 じつきう光忠

三好義賢は元長の二男で、安房守護代として兄:長慶の畿内での活動を補佐した。内政・軍事に優れていたが和泉久米田の戦いで畠山高政と戦い戦死した。茶道にも秀でており、実休と号していた。
畠山高政は河内守護畠山家当主で、畿内の覇権をめぐり三好家と対立を繰り返した。遊佐信教・安見直政らを排除しようとしたが、逆に追放されて紀伊に逃れた。晩年はキリスト教に帰依した。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

実休光忠_光悦刀譜実休光忠_継平押形

(法量)
長さ 長さ 2尺3寸(69.7cm)

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