石田正宗(いしだまさむね)

  • 指定:重要文化財
  • 刀 無銘 相州正宗 (名物:石田正宗)
  • 東京国立博物館蔵
  • 長さ 2尺2寸7分(68.78cm)
  • 反り 8分2厘(2.48cm)

 

 

石田正宗は相州正宗作の刀で「享保名物帳」に所載し、石田三成の佩刀であったことに刀号が由来する。また、棟に敵の刀の刃による武勲を物語る小さくない切り込みが物打ちと鎺元に2箇所もあるので切込正宗とも呼ばれる。もとは「毛利若狭守殿所持」とあるものの誤りで、毛利ではなく正しくは森で「森若狭守所持」の誤りであるということである。森若狭守は関白:秀次に仕えて、馬廻りの組頭を勤めていた。秀次が切腹させられた後は主君を失い浪浪の身となってからであろう、これを岡山城主:宇喜多秀家に四百貫で正宗の刀を売った。秀家はこの正宗の刀を石田三成に贈った。慶長3年(1598)、太閤:秀吉が薨去したのち、加藤清正・福島正則らをはじめとする七武将は、朝鮮への出兵の時にあげた数々の武勲を、石田三成がその手で握りつぶしてしまい、秀吉の耳に入れなかったことに対する憤懣を爆発させた。
慶長5年(1600)閏3月、三成のことを打ち果たそうとしたので、徳川家康はこれを憂慮して、三成の職を解き、佐和山城に帰らせた。その帰路の途中で何者かに襲われる可能性を心配して、わざわざ家康は結城秀康・中村一氏・生駒親正ら三人の武将に命令して、三成を護送せしめた。秀康は勢田(滋賀県大津市)まで来たところ、三成が護衛はこの辺りまでで十分であるとしきりに辞退するもので、自らの代わりに土屋昌春をつけて佐和山城までお送り届けさせた。三成はその恩を謝するため、石田正宗の刀を秀康に贈った。それによって石田正宗とも、またあるいは棟部分に刃によった切り込みが物打ちと鎺元の辺りの2箇所にあるので、切り込み正宗とも呼ばれた。そして、作州津山藩:松平家に伝えられて戦後までは伝来していたのだが、現在は同家を出て東京国立博物館蔵となっている。

「名物帳」には「石田 切込 (正宗) 松平越後守殿 作州津山 磨上 長さ弐尺弐寸弐分 無代
毛利若狭守殿所持也。浮田中納言秀家卿四百貫に被召上。石田治部少輔へ樋遣、治部事秀吉公御他界巳後諸大名に悪み被立、存命難(く)成(る)様子也。家康公御哀憐に依(り)無恙。去れ共其分にて被差置(候)故居城江州沢山へ蟄居せしむ。干時慶長五子閏三月七日也。道すがら家康公御気遣に被思召(候に)、付(き)、結城中納言秀康卿に、中村式部、堀尾帯刀両人を御差添(え)城中迄慥に送り届候様に被仰渡、被遣。勢田迄御越之刻治部下馬被致良久(しく)秀康公へ御物語申(す)。家康公御心入(れ)難有奉存候とて落涙仕(る)。扨是よりは拙者之領内に候得者御三人共御帰り被下候様再三申候得共城内迄送り候様旁々被仰渡候間是非に可参と御申(す)。治部重(ね)て申候は拙者存候子細御座候条、達て御帰り候様に申(す)に付三人共御帰り也。其刻右之刀を秀頼公へ進(め)御家に伝(わ)る。」

作州津山松平子爵家の刀剣台帳である「御宝剣 御拝領 御由緒 三品御腰物帳」に石田正宗は記載されている。
「石田正宗 長サ弐尺弐寸弐分半 磨上 相模国鎌倉住 岡崎五郎ト号ス 三作之一也 亀山院文永元生 光明院康永二死 八十歳 文永元ヨリ五百四十一年に及フ。
御脛巾金無垢 二重地鑢
御袋緋緞子 白糸ニ而 石田正宗と縫入レ有之 紐紫
内箱黒塗 蓋二石田正宗ト 金粉ニ而記有之 紐付金物 銀四分一 紐紫 外裏萌黄緞子紐萌黄
外箱溜塗 金粉ニ而 石田正宗ト記有之」

形状は、鎬造、庵棟、反高く、中鋒。鍛えは、板目肌つみ、地沸つき、地景入る。刃文は、のたれに互の目交り、足・葉入り、金筋かかる。帽子は、乱れこみ、先小丸、掃きかける。茎は、大磨上、先剣形、鑢目勝手下り、目釘孔一。
身幅・鋒ともに尋常で、これも亦正宗刀の一形態を示し、刃文はのたれにやや箱がかった大互の目乱が揃い気味に沸づいていて、いわゆる馬の歯乱を示し、正宗の一作風を代表する一口である。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺2寸7分(68.78cm)
反り 8分2厘(2.48cm)
元幅 9分2厘(2.79cm)
先幅 7分(2.12cm)
鋒長さ 1寸0分5厘(3.18cm)
茎長さ 6寸5分強(19.7cm)

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