菊御作(きくごさく)

菊御作は、後鳥羽上皇作の刀剣で、古くは御所焼き、または御所作り、菊作とも呼んでいた。「承久記」では次家と次延、「承久軍物語」では家正という刀工に刀を作らせ、上皇は鍛刀の行程の仕上げである焼き入れのみを行われたとあるが、「増鏡」では刀剣の鑑定に長じていられたことだけを挙げている。刀剣書でも古くから、後鳥羽上皇の自作とする説、備前の福岡一文字派の則宗や助宗の作刀に、菊紋を茎に切ることを許された、とする説とがあった。
上皇は正治元年(1199)3月、江州坂田郡宇賀野村の蓮成寺に臨幸されたとき、土地の刀工七十五名をよび、鳥羽上村で鍛刀された。名越村の片山左近がもっとも上手だったので、播磨権守・鍛冶宗匠に任じ、常喜院という号を与えられた、という伝説がある。隠岐に遷幸された後も、土地の下手鍛冶を集めて鍛刀させた、という説がある。それを隠岐院物という。
菊御作と称する太刀の作風は、福岡一文字派の則宗や助宗によく似ており、焼き幅の広いものは、匂い出来で大丁字乱れ、狭いものは沸え出来で小丁子乱れ、または直刃丁字乱れとなる。
現存する御作の菊紋は、十六葉が多く、二十四菊葉は希である。古剣書には八葉・十七葉・八重菊・葉菊・枝菊のほか、異形のものをあげているが、信じがたい。なお、十六菊の菊は月の下旬、八葉の菊は上旬に作ったものに切るとか、「行永」という法名を切るとかいう異説のほか、隠岐島では「金丸」または「隠岐院」、「助秀」とも切るという説もあるが、いずれも信じがたい。室町以前の古剣書に見当たらないからである。

菊御作について文献ではこれらのように記載されているのを目にすることができる。
堪仲記(弘安2年:1279) 2月2日の項 「入夜参殿下、関東城介泰盛朝臣、御馬二疋、一疋置鞍、御剣一腰、菊作、砂金五十両、付予令進入、」
石清水八幡宮史 史料第六輯 (永仁4年:1296)11月付 竹良清譲状
「一 菊作太刀 後鳥羽院御作 駿川守太刀」
後法興院記(応仁2年:1468) 8月21日の条 「多羅尾参河入道道玄穎来、令持参馬、鴇毛、太刀、菊作、余令対面遣太刀了、」
蜷川親俊日記 (天文8年:1539)閏6月3日の条 「大村民部大輔純前 公方様へ御礼御太刀一腰 国宗 御馬一疋 代 万疋於御座敷御対面御剣拝領仕也。則別又御太刀一腰 菊一文字 御馬 進上之。若公様へ御馬たち進上之御阿対面云々。」
承久紀には、「御所焼」
承久兵乱紀には、「御所作」「菊銘」
宗五大草紙-伊勢貞頼:著(享禄元年:1528)には、「不明 菊十六葉」
新札往来(貞治6年:1367)成立には、「太刀刀の身」の条 「中比後鳥羽院鍛冶。御製作以菊為名」
尺素往来-一条兼良(1402-1482)著では、「長刀及太刀。腰刀者」の条 「後鳥羽院鍛冶。御製作以菊為名」
桂川地蔵記(応永23年:1416)頃成立には、「上件一々之太刀。刀。長刀刀之実者」の条 「以往鍛冶天国。神息藤戸。菊作。」「後鳥羽院番鍛冶等」
「宗悟大草紙」(大永8年:1528)成立には、「御物に成り候太刀の銘」の項 「菊十六葉あるべし」

御番鍛冶とは、後鳥羽上皇から召し出され、月番で刀を作った鍛冶で、古くは御詰め番の鍛冶・御番の鍛冶・番の鍛冶などといった。御番鍛冶制度が始められた時期は、刀工を召し出すときの太政官符と称するものがあって、その日付は承元2年(1208)、または承元3年(1209)の正月となっている。上皇が倒幕祈願のため、最勝四天王院を創建されたのは承元元年(1207)、有名な「奥山のおどろが下もふみわけて」の歌を詠まれたのは、その翌年の承元2年(1208)であるから、御番鍛冶創設もそのころと見てよろしい。
太政官符によれば、上洛するときは浄衣一揃い、夏ならば帷子が支給され、帰国するときは直垂や小袴が与えられた。在京中の食事や鍛冶炭は乳母所から支給されたという。しかし、そういう事実はあったかも知れないが、古剣書にある太政官符は、太政官符の形式になっていないから、後世の偽作のはずである。鍛冶場は菅湯院にあったという。これは菅陽院の誤写で、賀陽院のことである。承久の挙兵のさい、上皇が指揮を執られた所である。
御番鍛冶の刀工の名前としては、「承久記」には、次家と次延、「承久軍物語」には家正の名をあげ、それらが鍛えた刀に、上皇が焼き刃を渡されたとある。それを「御所焼き」と呼んで、御番鍛冶という呼称はまだ使っていないようである。しかし、刀剣書では御番鍛冶という名称をつかい、それに月番を割り当てている。これに十二人制・二十四人制・隠岐など三種類ある。

十二人制の番鍛冶
これが最初にできた番鍛冶制度で、承元の御番鍛冶ともいう。これにも各月に一名ずつ割り当てたものと、二名を一組にして二ヶ月ずつ割り当てたものと、二種類ある。前者の例としては「能阿弥本」の区別をあげれば、
1月は備前則宗
2月は備中貞次
3月は備前延房
4月は粟田口国安
5月は備中恒次
6月は粟田口国友
7月は備前宗吉
8月は備中次家
9月は備前助宗
10月は備前行国
11月は備前助成
12月は備前助延
となっている。
上皇の師徳鍛冶つまりお相手として、粟田口久国と備前信房、研師として国弘と為貞の名をあげている。さらに二ヶ月勤務として、公家たちが二名ずつ割り当てられている。
正月・2月は大宮中納言と二位僧都尊長、3月・4月は太政大臣二位宰相と新中納言範義、5月・6月は中納言康業と三位中納言実康、7月・8月は新中納言重房と光親朝臣国経、9月・10月は二位中納言雅経と宰相中将資兼、11月・12月は二条中納言有雅と大炊御門三位中継となっている。これらの顔触れは古剣書によってかなりの異動があるが、通覧して直感することは、朝廷の制度として絶対にあり得ないことである。
つぎに不審なのは、御番鍛冶の監督は兵庫寮がしたはずである。兵庫寮の頭、つまり工場長は諸大夫で、従五位下という低い身分の者だった。そこの奉公人に太政大臣が狩り出されるなどということは、絶対にあり得ないことである。また奉公人の身許を調べてみると、「承久記」に出てくる人物以外は、すべて架空の人物であるばかりか、実在の人物でも肩書に誤りが多い。

二十四人制の番鍛冶
前の十二人制番鍛冶表は室町初期の古剣書に出ているが、二十四人制は幕末になって初めて現れたものである。もっとも「文明十六年銘盡」にも出ているが、それは後世の追記である。
二十四人制番鍛冶は、これを初めて掲げた「古刀銘盡大全」によれば、
1月は備前包道と粟田口国友
2月は備前師実と備前長助
3月は大和重弘と備前行国
4月は備前近房と豊後行平
5月は備前包近と備前真房
6月は備前則次と備前吉房
7月は備前朝助と伯耆宗隆
8月は備前章実と備前実経
9月は備前包助と備前信房
10月は美作朝忠と美作実経
11月は備前包助と備前則宗
12月は備中則真と備前是助
である。
そのほかに奉行として、山城の粟田口久国と備前信房の二工が任命されたという。

隠岐の番鍛冶
これは江戸初期の「古今銘盡」に初めて現れたもので、
1・2月は粟田口則国
3・4月は粟田口景国
5・6月は粟田口国綱
7・8月は備前宗吉
9・10月は備前延正
11・12月は備前助則
が奉仕したという。
隠岐の番鍛冶のことは、寛政3年(1791)出版の「古刀銘盡大全」にもある。天正(1573)ごろの「正銘写物目録」に、粟田口久国が隠岐島において鍛刀したものは、銘字を「久」の第三画を短く切るとある。
現在、隠岐の海士町の北方に、11・12月詰めの備前助則の子孫と称する梶谷家があるほか、海士町東分にも御番鍛冶の子孫と称する家がある。海士町刈田には、御番鍛冶使用と伝えられる古井戸もある。これらが真実とすれば、「新刊秘伝抄」に近辺の下手鍛冶に刀を造らせ、菊紋を打たせたとあるから、京都や備前から呼んだ刀鍛冶でなくて、隠岐在住の下手鍛冶たちが奉仕したようである。

後鳥羽上皇の御番鍛冶は、日本ばかりでなく、中国でも大いに誤解を招いている。御番鍛冶の刀を中国では上庫刀と呼んでいる。それは全国から名工を集めて、庫中に封鎖し、期限はお構いなしに造らせたとして、名づけたものである。そのうち、最高の名人を嘉久としているが、そういう番鍛冶はいなかった。しかし、期限をお構いなしというのには、一面の真理がある。そうして気のすむまで、念入りに造ったからこそ、一文字時代という日本刀の黄金時代を築いたのである。
しかし、そうなるのは、そうするだけの経済的基盤が必要である。実は上皇には広大な荘園が、38か国にわたり、3,000余か所もあった。その豊かな財力があったからこそ、承久の乱も起こせたし、御番鍛冶も招集できたのである。京都の粟田口鍛冶の招集は、お膝元だから問題はなかった。備前には国衙領と邑久郡豊原荘(岡山県邑久郡邑久町)、備中には国衙領と賀陽郡吉備津宮荘があった。そこの鍛冶たちは、直接命令で招集できたはずである。

御番鍛冶とよばれる鍛冶たちの作風は、十二人制番鍛冶をだけを取ってみても、山城粟田口・備前・備中青江という三派が、それぞれの流派に沿った作品を作っている。とくに備前鍛冶はいわゆる福岡一文字派であるが、作風はかなりの差異が見られる。則宗は古備前風のあまり出入りの少ない地味な作品を遺しているが、その子の助宗になると、一文字の典型的な華麗な丁字乱れになってくる。なお、月番に当たっているとき作った刀には、刀工銘の下に「上」の字を添えたともいう。

後鳥羽上皇は、高倉天皇の四男として、治承4年(1180)に誕生する。寿永2年(1183)、安徳天皇が都落ちしたため、わずか4歳で神器なしで即位する。建久9年(1198)、19歳で土御門天皇に譲位し、以後、院政をしく。上皇はみずから「新古今和歌集」を勅撰するほど、和歌に短刀だった。その点、将軍:源実朝とも仲よかったが、実朝の横死後は、北条氏の支配する幕府との間が険悪になった。
承久3年(1221)、ついに幕府追討の挙となって、爆発したが、一敗地にまみれ、隠岐の島へ配流の身となった。そして隠岐の島守りとして18年、延応元年(1239)2月22日、60歳をもって悲劇の生涯を閉じた。

菊紋は、菊の花をかたどった家紋のことで、菊はもと鞠・蓻などと書き、中国では花に五美ありとして、鑑賞するとともに、花弁の配列が日輪、つまり太陽に似ているところから、日精とよび漢方薬として用いられた。菊を別名、日精草とよぶのはそのためで、さらに延命長寿の効があるとして、延年草または延寿客などとよんだ。
日本に伝わったのは、仁徳天皇の73年(375)、という説があるが、「万葉集」に菊を詠った歌が、一首もないところから、この説は否定される。承和(834)の頃とする説もあるが、それより先、延暦16年(759)、桓武天皇の御製に、すでに「菊乃波奈」とあるから、承和説も否定されることになる。つまり、桓武天皇以前に、日本には渡来していたことになるが、当時は菊をククとも訓んでいた。それを中国音chuを、そのまま踏襲したものである。和名としては、カワラヨモギ・カワラオハギなどとよぶ。ただし、これは野菊を指したもののようである。
平安貴族の間では、菊花を花のなかの「貴種」とよんだり、中国の延年草に因んで、翁草と称えたりして、おおいに愛好された。それで菊花を図案化して、衣服や調度の文様にするようになった。朝廷でも桓武天皇に続いて、平城・嵯峨の両天皇も菊を愛された。それで、菊紋が朝廷の紋になったのは、嵯峨天皇の時からという説さえある。これに対して、宇多天皇は「菊合わせ」の遊びをはじめたほどの愛好家だったので、菊紋も宇多天皇から、という説がある。
以上の両説には、菊紋を使用した、という確証はないが、後鳥羽上皇にはある。上皇崩御のとき30歳だった、葉室中納言定嗣の日記「葉黄記」によれば、上皇は袍・車・輿などに、八葉の菊紋を用いられたとある。さらに刀銘に菊紋を切らせた、という確証もある。現存する上皇の御作の菊紋は、十六葉か二十四葉かになっている、前者は小型、後者は大型になっている。しかし、古剣書には十六葉・二十四葉ともに、八葉の紋や十六葉の葉菊をあげたものもある。

太刀 銘 (菊紋)菊御作 (重要文化財)
長さ:2尺5寸8分(78.1cm)、分(2.2cm)、形状は、細身で腰反り高く、先伏しごころに小峰、優雅な姿をしている。鍛えは、小板目よくつみ、地沸こまかにつく。刃文は、直刃に小乱、小丁子尖りごころ、小互の目交じり、小沸よくつき刃縁に湯走りがある。帽子は、のたれこんで先小丸。茎は、雉子股形、先切り、鑢目は筋違い、目釘孔は一個、表の鎺下に十六葉の聞くもを毛彫で表している。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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