菊一文字則宗(きくいちもんじのりむね)

  • 位列:古刀最上作
  • 国:備前国(岡山県-南東部)
  • 時代:鎌倉時代初期 承元頃 1207-1211頃

 

菊一文字とは、一文字則宗および、則宗の子である助宗の打った太刀に、特に菊紋を切ることを許されたものを称する。銘には菊紋のみとなり、一の字は切らない。これを後鳥羽上皇の代作をしたとみて、菊紋の刀を後鳥羽上皇の作とみる説と、則宗や助宗の傑作刀に特に菊紋の下賜が許されとみて、則宗や助宗が鍛えた作とみる説との二説がある。
現今では前説を採っているが、則宗を「菊一文字則宗」とよぶのは、後説を採っていることになる。菊紋を切ったものは、「則宗」銘のものより、鎺もとから丁字乱れに玉刃を焼き、沸えも濃やかに多くつき、地鉄も青く冴えているというから、特に出来映えの優れた傑作刀が選ばれていたということになる。

則宗は備前福岡一文字派の祖、備前小瀬住定則の子、備前太夫と通称で呼ばれ、刑部允という官位に任じられた。後鳥羽上皇の御番鍛冶で、正月番、二十四人番鍛冶では十一月番を勤めた。その功により菊紋や一文字を中心に切ることを許されたという。しかし、菊紋のある作は、後鳥羽上皇の御作とするのが、今日通説になっている。なお、一文字は、則宗は切らず、子の助宗に譲ったとされているが、則宗は、磨り付け一文字といって、鑢の角で「一」の字を切った、という異説もある。
なお、古剣書において則宗のことを建部流秘伝書-建部光重:著(慶長12年:1607)・徳刀流目利書-著者不詳(元亀:1570)では「菊一文字」、あるいは、天文目利書-細川幽斎:著(天文1年:1532)では「大一文字」と記されている。
ほかに、「奉公覚悟之事」(室町後期)の「進物になる名物の名物の事先ハの項」、に「備前国 一文字派 菊一文字」
「新刊秘伝抄」(天正19年:1591-写本)に「則宗 後鳥羽院 番鍛冶 菊一文字と云う」、
「別所長治記」(神吉ノ城攻)の項(天正6年:1578年7月)には「神吉重代ノ打物備前菊一文字則宗二尺九寸アリケルヲ小脇ニ引ソバメ押入敵ニ走カゝカリ」、
「古今銘尽」(慶長16年:1611-版本)に「則宗 この作の太刀に御作あり。菊一文字これなり」と記されている。はやくは室町時代後期から江戸時代初期の頃にはすでに則宗のことを「菊一文字」と記した文献がのこされている。「菊一文字」とは、筆頭の正月番をつとめた則宗を御番鍛冶の代表や象徴として捉えた尊称や敬称としても用いられている。
則宗は天治二年(1125)生、建久八年(1197)没、七十三歳または七十八歳とする説と、仁平二年(1152)生、建保二年(1214)没、六十三歳とする説とあるが、ともに信じがたい。
作風は、品位のある太刀姿で、切先はつまり、刃肉がつく。地鉄は軟らかく大肌まじり、映りが現れる。刃文は小乱れに小丁子乱れがまじり、末古備前風の地味な作風のものである。また菊刃という菊花に似た刃文を則宗は横手の下に焼くという。銘は「則宗」と二字銘に切る。ただし、「享保名物帳」所載の「二ツ銘則宗」は、「備前国則宗」と五字銘。昔は飛切丸という名物もあった。

太刀 銘 則宗 日枝神社蔵 (国宝)
長さ:2尺5寸9分(78.5cm)、9分(2.7cm)、形状は、鎬造り、庵棟、細身で腰反り高く小鋒の優しい姿の太刀である。鍛えは、小板目肌、よく練れてつみ、地沸細かにつき、乱れ映りが立つ。刃文は直刃調に小丁字を焼き、小乱れ交じり、小足・葉しきりと入り、金筋・砂流しかかり、匂口締まりごころに冴える。帽子は直ぐに先小丸。僅かに掃きかける。茎は生ぶで雉子股形につくり、先ほとんど切、鑢目勝手下がり、目釘穴一、佩表棟寄りに細鏨で「則宗」と銘がある。
この太刀は、「大猷院殿御実記」に「正保三年六月六日 将軍家光の第四子徳松(後の五代将軍綱吉)は御宮参りに二の丸宮、紅葉山東照宮及び山王社に詣で 山王の社へ則家(宗ノ誤リ)の御太刀 青毛の馬を進推す」とあって、この太刀の伝来を記している。
(徳川実紀)正保三年六月 ○六日徳松君二丸 内宮に参らせ給ふ。留守居杉内内蔵允正友。宮崎備前守時重供奉し。行平の御太刀。馬資金薦し給ふ。(中略)次に山王の社へ詣給ひ。則家(宗ノ誤リ)の御太刀。青毛の馬進薦あり。神酒。奉幣はてゝ最教院晃海。神主日大膳某に銀二十枚づゝ。惣中へ銀五十枚くださる。御かへりに牧野内匠頭信成のもとへ立よらせ給ふ。
山王神社宝刀図譜には、「徳松様御宮参正保三年六月六日 六則宗二尺六寸弱之 葵御紋」

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

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