篭手切江(こてぎりごう)

  • 脇指 (金象嵌銘) コテ切 義弘 本阿(花押)(光温) (銀象嵌銘) 稲葉丹後守所持之
    (名物:篭手切江)
  • 黒川古文化研究所蔵
  • 長さ 1尺5寸7分(47.6cm)
  • 反り 4分(1.2cm)

篭手切江は江義弘作の脇差で「享保名物帳」に所載する。もと細川幽斎が所持し、それを相州小田原城主:稲葉丹後守正勝が入手した。正勝は春日局の子で、寛永11年(1633)唐物方および碁、将棋、座頭、舞々、猿楽の者支配役に任命されている。刀剣にも趣味があったのであろう。本阿弥光温に命じて、「コテ切 義弘 本阿(花押) 稲葉丹後守所持之」、と銀象嵌を入れさせた。その時期は、光温の花押から見て寛永3年(1626)以後、正勝の没年の同11年(1634)以前ということになる。
光温の晩年、つまり寛文2年(1662)、百枚の折紙を出した。その後、熊本城主:細川忠利の許にいった。それはおそらく正勝の弟:内記正利が寛永8年(1631)、駿河大納言忠長の重臣だった関係で、細川家にお預けになっていた。それが死去したとき、お礼の意味で、旧蔵者の細川家へ贈ったのであろう。その後、細川家から本阿弥家に鑑定きたので、折紙の代付けを百三十枚に値上げして出し直した。その後、再び稲葉家に戻ったのは、正勝の嫡孫:正征が幕府の老職になったので、そのお祝いという名目で返したのかも知れない。享保4年(1719)また本阿弥家で、二百枚の折紙を出している。
以後、稲葉家に伝来していたが、大正7年(1918)3月、同家の売立に出され、光忠二百枚折紙と本阿弥琳雅の留帳写しも添えてあり、新潟の丸山啄左衛門が3,238円で落札した。昭和6年(1931)11月2日、丸山家の売立では2,121円で落札された。現在は黒川古文化研究所蔵となる。

名物帳には「稲葉丹後守殿 淀 篭手切(江) 象嵌銘 長さ壱尺五寸七分 代金弐百枚
中心表にコテ切義弘本阿判金象眼入(る)。裏に稲葉丹後守所持と銀象眼入(る)。寛文二年百枚。其後細川越中守殿へ一度行(く)。細川殿より来(る)。百参拾枚に成(る)。又稲葉殿へ戻り享保四に来(り)、右の代に成(る)。」

折紙には「篭手切江 正真 長サ壱尺五寸七分 銘名判象眼入 代金子弐百枚 享保参年戌 極月三日 本阿(花押)(光忠)」

形状は、鎬造、庵棟、身巾尋常、反りややつき、中鋒。地鉄、板目やや肌立ち、流れごころに、肌よくつみ、地沸つく。刃文は、のたれに互の目・乱れごころ交じり、沸よくつき、砂流しかかり、金筋入る。帽子、殆ど一枚風。彫物、(表)なし (裏)種子(不動明王)。茎、大磨上、剣形茎尻、鑢目切り、目釘孔二、金象嵌銘(コテ切義弘本阿花押)、銀象嵌銘(稲葉丹後守所持之)

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)
#篭手切江

(法量)
長さ 長さ 1尺5寸7分(47.6cm)
反り 反り 4分(1.2cm)
元幅 8分4厘(2.55cm)
先幅 6分6厘(2.0cm)
元重ね 1分8厘(0.55cm)
先重ね 1厘(0.4cm)
鋒長さ 1寸1分5厘(3.5cm)
茎長さ 4寸2分6厘(12.9cm)
茎反り 僅か

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