毛利藤四郎(もうりとうしろう)

  • 短刀 銘 吉光 (名物:毛利藤四郎)
  • 東京国立博物館蔵
  • 長さ 8寸7分5厘(26.5cm)
  • 反り 内反り

 

毛利藤四郎は「享保名物帳」に所載する、粟田口吉光作の短刀で、もと毛利輝元が所持したことに刀号が由来する。徳川家康に献上され、家康は関ヶ原合戦のとき、池田輝政に与えた。元禄5年(1692)6月10日、本阿弥家の十二代当主の光常は輝政の曾孫:綱政の邸で短刀を拝見した。以後、池田家に伝来していたが、明治24年11月、池田章政侯爵より宮内省に献上された。戦後、国有となり、東京国立博物館保管となる。
刃長については、八寸三分(約25.2cm)・八寸四分五厘(約25.6cm)・八寸六分(約26.1cm)などの諸説は誤りで、八寸七分五厘(約26.5cm)が正しい。平造り、真の棟。差し裏に護摩箸、裏に腰樋と添え樋をかく。地鉄は板目肌に地沸つく。刃紋は沸え出来の直刃に、足や二重刃まりじ、金筋走る。鋩子は小丸。中心はうぶ、目釘孔二個。「吉光」と二字銘。鎺は金無垢二重台付鎺で「吉光うめたた寿斎」、と針銘のある在銘となっている。

「名物帳」には松平大炊頭殿 毛利(藤四郎) 銘有 長さ八寸七分半
毛利輝元卿の御所持重代にて干今御家に有之。表護摩箸、裏棒樋并(に)短き添樋有之。

毛利輝元は、毛利隆元の嫡男、毛利元就の孫、幼名を幸鶴丸といい、将軍:足利義輝の偏諱を受け、輝元と名乗った。幼くして西国最大の勢力を誇った毛利家の当主となるが、祖父:元就や叔父の吉川元春・小早川隆景の薫陶を受けて育ち、豊臣政権では五大老を務めた。11歳のときに父:隆元が急死し、家督を継ぐ。月山富田城攻めで初陣を飾り、尼子家を滅ぼすなど新当主として順調な滑り出しだったが、織田家との抗争が激しくなると徐々に劣勢になった。輝元は織田信長とは対抗したが、本能寺の変が起こり、信長没後は豊臣秀吉の天下統一事業に協力する姿勢をとり、安芸・周防・石見百二十万石の所領を有して、従三位中納言に叙任された。このころ広島城を築城して吉田郡山城から転居している。豊臣政権では五大老の一人としてその重責を担い、戦国生え抜きの大名として徳川家康に対抗し得る力を持っていた。石田三成ら反家康勢の挙兵に際しては、安国寺恵瓊らに説得されてその総大将として迎えられ、大坂城西ノ丸に入城した。関ヶ原合戦ではみずから戦場に赴くことはなかったが、毛利秀元や吉川広家ら一族の武将を派遣した。しかし、徳川方と好を通じていた吉川広家の動きもあって、本戦では毛利勢は積極的に戦線には加わらず、石田方の潰走とともに撤退する。関ヶ原での敗戦を受けて、輝元は大坂城を退去する。その後、輝元は関ヶ原での石田方への関与の罪を問われ、毛利家の所領を防長二ヶ国に大幅に削減されてしまう。その後は出家して宗瑞と号し、家督を嫡男の秀就に譲ったが、しばらくは毛利家の実権を握っていたという。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 8寸7分5厘(26.5cm)
反り 内反り
元幅 7分強(2.2cm)
茎長さ 3寸9分(11.7cm)
茎反り なし

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