松井江(まついごう)

  • 指定:重要文化財
  • 刀 (朱銘)義弘 本阿(花押)(光常) (名物:松井江)
  • 佐野美術館蔵
  • 長さ 2尺2寸9分(69.4cm)
  • 反り 5分6厘(1.7cm)

 

松井江は「享保名物帳」所載、越中郷義弘極めの刀。細川幽斎・忠興の重臣で、豊後杵築城主;松井康之が所持した。松井江が徳川将軍家に入った事情は不明であるが、細川家が肥後に入国すると、康之の子:興長は八代城に入った。しかも、それは八代城の城代ではなく、城主としての資格で、幕府の直接命令によるものだった。その為に、藩主が代替りする際には、必ず江戸城において、将軍より朱印状をもらっていた。すると、寛永9年(1632)、興長が八代城を与えられた時に、その御礼として、松井江を将軍へ献上した公算が、もっとも大きい。
将軍家では綱吉の息女:鶴姫(5歳)が紀州徳川家:2代藩主光貞の長男:綱教(17歳)へ降嫁することが決まると、本阿弥光常に命じて、貞享2年(1685)正月3日付で、代金子二百枚の折紙を代付けをさせるともに、中心に朱銘を入れさせた。そして同年3月6日、将軍綱吉は登城してきた父光貞には、当麻の刀と武蔵正宗の脇差(※誤記 正しくは武蔵正宗の刀、上部当麻の脇指)を綱教に婿引き出として松井江の刀に「朱判正宗」の脇差をそえて与えた。
以後、紀州徳川家に伝来していたが、昭和8年11月、同家の売立てにおいて、2,390円で落札された。昭和10年12月18日付、伊藤平左衛門名義で重要美術品、戦後、重要文化財となり、佐野美術館蔵。
松井家は細川家の筆頭家老、八代城主で、現在八代にある松井家には、興長の差料として松井江の朱鞘が保存されている。
松井文庫(熊本県八代市)には、「長岡式部少輔」と金蒔絵された朱鞘が残されており、初代:松井佐渡守康之の差料:備前長船春光の刀とともに、二代:松井佐渡守興長すなわち長岡式部少輔の鞘があり、松井江の刀はぴたりと鞘に納まり伝来の確かさが証明されている。

名物帳には「紀伊国殿 松井(江)朱銘 長さ弐尺弐寸九分 代金弐百枚
細川殿内松井佐渡所持。後御城に有之。鶴姫君様御入輿之刻常陸介殿拝領。古中心壱寸程残りり、朱銘出来。」
松井佐渡守康之は細川藤孝、忠興父子に仕え、秀吉からも愛顧をうける。慶長5年の役には杵築を守る。慶長17年正月23日卒、年63(戦国人名事典)
貞享2年2月22日、将軍綱吉の息女:鶴姫、紀州綱教へ入輿。3月6日綱吉より綱教(常陸介)へ引出物に義弘の刀、朱判正宗の脇指を給わる(常憲院実紀)

刃長:2尺2寸9分(約69.4cm)、反り:5分3厘(約1.6cm)
形状は、鎬造、庵棟、中反り、中鋒。地鉄は、鍛小板目よくつみ、地沸細かに厚くつき、細かな地景現われ、冴える。刃文は、広直刃、裏の物打のたれとなり、総体に小沸よくつき、匂口やや深く、逆足・小足・葉入り、明るく冴える。上半に棟焼がある。帽子は、殆んど一枚で、表小丸、裏尖りごころの小丸、やや長く返る。茎は、大磨上、先剣形、鑢目切、目釘孔一。表茎先に「本阿(花押)」、同裏に「義広」の本阿弥家12代光常の朱銘がある。

刃長2尺2寸8分、磨上。元孔を残さないまでに磨上げられているが、元幅に対して先幅が目立って細く、いまも反り高くふんばりがある太刀姿をとどめ、鎬やや高く、鎬巾やや広く、中切先僅かに延びる。鍛小板目よくつまり、地沸厚くかがやき、地景よく入るが、則重のごとくあらわでなく、地沸に埋もれている感がある。刃取が総じて深く、直刃の土取りであったろうが、焼き込んで自然に浅く、大きいのたれが出来、裏横手下に小のたれ交じる。匂口明るく冴え、つぶらにかがやく小沸つき、小足・葉よく入り、ともに逆ごころ交じり、裏腰に地沸こごって二重刃ごころがあり、鎬地の棟寄りに湯走りがあって、特に裏が目立つ。帽子は一枚ごころで小丸に深く返り、鎬地の湯走りにつらなり、掃掛かかる。名物帳流布本に古茎が1寸(約3.0cm)程残されているので朱銘を加えたとあるが、表2寸(約6.0cm)位が古茎ともいわれている。細身ながら地刃のよさは稲葉・富田に優るとも劣らない。光悦名物刀記、享保名物帳に所載する。

刀の朱銘例は珍しいもので、茎の朱銘は、本阿弥家の約束に従い、磨り上げの折、元の茎を1寸(約3.0cm)ばかり残しているので朱銘としている。大磨り上げには金象嵌銘をいれることになっている。他に明治以降になってから朱漆で極めや、代付けなどを記したものは「朱書(しゅがき)」と称して「朱銘(しゅめい)」との混同を避けるために区別されている。「朱銘」は朱判ともいいあくまで生ぶ無銘、あるいは磨上げながらオリジナルであった古茎の残存の一部を留ている上作のもののみに本阿弥家でも使用しており権威あるものとなっている。
他に刀で朱銘の入ったものは、やはり五代将軍綱吉より紀州徳川家:二代光貞が拝領した相州正宗極めの小太刀で本阿弥光常が朱銘を施したものが知られている。

朱銘(しゅめい)とは、中心に朱漆で刀工や鑑定家の名を書いたもの。室町期から行われていたのを、本阿弥家でも踏襲、作の上下によらず、朱銘を入れていたが、元禄(1688)になって、上作で、しかもうぶ中心のみに入れることとし、名も朱判と改めた。
朱判(しゅはん)とは、本阿弥家において元禄ごろ、従来の朱銘制度を改め、上作の無銘物にのみ、中心に朱漆で刀工名を書くことにしたもの。しかし、朱判は年月とともに消失するのが欠点である。著名なものに松井江とともに徳川綱教に与えられた「朱判正宗」や、「朱判貞宗」などがある。

朱塗鞘打刀拵
全長:94.3cm 頭は山金山道文高彫 目貫は赤銅笠文高彫色絵 縁は銅皺革包 鯉口・栗形は角黒塗 返角は主漆塗 鐔は練革木瓜形に朱塗りを施す 柄は白鮫革包に燻革菱巻 鞘表裏に「長岡式部少輔」金巻絵
華美な装飾を配した朱漆塗りの鞘が美しい。小柄や笄を収める穴がなう、下緒を通すための「栗形」と刀身を鞘から抜く際に鞘ごと抜けないように帯に引っ掛ける「返角」の間隔が狭い。これらの特徴は、桃山時代から江戸時代初期の古式を示し、打刀拵の古作例として貴重である。
鞘の表裏には、金蒔絵で「長岡式部少輔」と記されている。長岡式部少輔を名乗ったのは松井家二代興長(1582~1661)と三代寄之(1617~1666)の二人であり、拵の製作時期とも符合する。しかし、興長と寄之の没年はわずか五年の差しかなく、所有者の特定は難しい。

松井家は、室町時代、足利将軍家に仕えた武家で、江戸時代には、肥後細川家で代々家老職をつとめ、正保3年(1646)から明治3年(1870)にかけて、熊本城の支城である八代城を預かった。松井家が細川家に仕えるようになったのは、初代:康之(1550~1612)の時で、康之はもともと室町幕府13代将軍:足利義輝に仕えていたが、永禄8年(1565)に義輝が家臣の謀反により殺害されると、縁家でもある細川藤孝(幽斎)に従うようになった。やがて、細川配下の将として、織田信長・豊臣秀吉の天下統一戦争に従軍し、軍略に優れた康之は、秀吉・家康の目に留まる存在だった。藤孝が丹後一国の大名に取り立てられると、一万三千石、一門格の家老となり、天正10年(1582)、本能寺の変の後には二万石に加増されて、丹後久美城(現:京都府京丹後市久美浜町)を築いた。以後、松井家歴代は、明治に至るまで、細川家の柱石として藩政を支えた。
松井家は、細川家の家臣であると同時に徳川将軍家からも山城国内(現:京都府内、後に一部は和泉国へ替地)に一七三石あまりの領地を与えられ、自家と将軍家の代替わりには、将軍御目見を許されていた。この領地は、もともと初代:康之が、織田信長・豊臣秀吉から拝領したものであるが、徳川将軍家も引き続きこれを安堵したものである。元和元年(1615)の一石一城令後にも、肥後では例外として八代城の存在が認められていた。寛永9年(1632)、細川家は豊前小倉より肥後熊本へ国替えとなる。この時、藩主:忠利の父で隠居の忠興(三斎)は、中津城からこの八代城へ入った。正保2年(1645)の三斎没後、藩主:光尚は幕府に願い出て、三歳の孫:行孝を北の宇土に入れ、かわって信頼の厚い家老:松井興長を八代城に据えた。八代は、肥後熊本の南の要であり薩摩に対峙し、また、外海へも繋がる八代海周辺の防衛の要衝でもあった。球磨川河口の良港を有して、肥後の五ヶ町のひとつとしても経済的に繁栄した。また、江戸時代を通して遠浅の沿岸を干拓、耕地を拡大していった。細川家の家老として三万石を有していた松井家は、将軍家からも所領を得ていたとはいえ、幕府にとってはあくまでも陪臣の立場であり、参勤交代の必要もなく、内実は極めて豊かであった。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺2寸9分(69.4cm)
反り 5分6厘(1.7cm)
元幅 9分1厘(2.75cm)
先幅 6分1厘(1.85cm)
元重ね 1分7厘(0.5cm)
先重ね 1分2厘(0.35cm)
鋒長さ 1寸0分2厘(3.2cm)
茎長さ 5寸8分4厘(17.7cm)
茎反り 6厘6毛(0.2cm)

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