源清麿(みなもときよまろ)

  • 位列:新々刀最上作
  • 国:武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県-東部)
  • 時代:江戸時代後期 弘化頃 1844-1847頃

 

 
山浦清麿は幕末の名刀工で、山浦真雄の弟、通称は内蔵助、のち環、刀工名ははじめ正行または秀寿、号は一貫斎。信州小県郡滋野村赤岩、現在の長野県小県郡東部町赤岩の生家において、兄とともに鍛法を研究した。長じて隣村:大石の長岡家の養子となり、男児までもうけたが、天保2年(1831)養家をとび出し、暫時松代城下で鍛刀したのち、江戸に出て、幕臣:窪田清音の指導と援助のもとに、鍛法の研究に没頭した。天保10年(1839)、清音が武器講を作ってくれたが、天保13年(1842)、工債を果たさぬまま、長州萩へ出奔してしまった。天保15年(1844)、小諸城下に数ヶ月駐追したのち、再び江戸に出た。
それから円熟の腕で名刀をぞくぞく世に出すとともに、普勝伊十郎や斎藤昌麿など、安政の大獄に繋がれた志士たちとの交遊を深めていった。四谷の北伊賀町稲荷横町に居を構えていたため「四谷正宗」とまで呼ばれていたが、若年からの深酒がたたり、軽い脳溢血にかかったのを悲観して嘉永7年(1854)11月14日、自刃して果てた。行年42歳。四谷須賀町の宗福寺に葬られた。
「水心子正秀」「大慶直胤」とともに江戸時代後期に活躍した「江戸三作」にかぞえられる。
作風は時世を反映して、長大なものが多い。鍛法は入念な「真の四方詰め」で、地鉄は杢目に柾まじり、地沸え美しく、地景・稲妻などしきりにかかる。刃文は尖り心の互の目乱れで、覇気横溢している。切れ味については、みずから「焼刃のあらん限りは、刃味毫も相替り候儀、決而有之間敷」と保証しているだけあって、抜群の評がある。その劇的な生涯と相俟って、人気は幕末刀工中、随一である。

刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製 弘化丙午年八月日 (重要美術品)
長さ:2尺6寸4分
身幅広く切先延び長寸でやや反り高い姿である。鍛えやや肌立ちごころ地景入り、地沸つく。刃文沸出来湾れと互の目交じり、金筋、砂流しよくかかる。表裏に二筋樋を掻流す。注文者の窪田清音は幕臣で軍学者であると共に清麿の後援者であり、指導者でもあった。

脇指 銘 信濃国正行 天保癸巳歳秋八月 窪田清音佩刀
長さ:1尺6寸6分余
癸巳は天保4年である。これは出府に際し正行が携えてきた一刀で、その形と寸法が気に入り窪田清音が佩刀としたものであり、その由を刻している。

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