源清麿(みなもときよまろ)

  • 位列:新々刀最上作
  • 国:武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県-東部)
  • 時代:江戸時代後期 弘化頃 1844-1847頃

山浦清麿は幕末の名刀工で、山浦真雄の弟、通称は内蔵助、のち環、刀工名ははじめ正行または秀寿、号は一貫斎。信州小県郡滋野村赤岩、現在の長野県小県郡東部町赤岩の生家において、兄とともに鍛法を研究した。長じて隣村:大石の長岡家の養子となり、男児までもうけたが、天保2年(1831)養家をとび出し、暫時松代城下で鍛刀したのち、江戸に出て、幕臣:窪田清音の指導と援助のもとに、鍛法の研究に没頭した。天保10年(1839)、清音が武器講を作ってくれたが、天保13年(1842)、工債を果たさぬまま、長州萩へ出奔してしまった。天保15年(1844)、小諸城下に数ヶ月駐追したのち、再び江戸に出た。
それから円熟の腕で名刀をぞくぞく世に出すとともに、普勝伊十郎や斎藤昌麿など、安政の大獄に繋がれた志士たちとの交遊を深めていった。四谷の北伊賀町稲荷横町に居を構えていたため「四谷正宗」とまで呼ばれていたが、若年からの深酒がたたり、軽い脳溢血にかかったのを悲観して嘉永7年(1854)11月14日、自刃して果てた。行年42歳。四谷須賀町の宗福寺に葬られた。
「水心子正秀」「大慶直胤」とともに江戸時代後期に活躍した「江戸三作」にかぞえられる。
作風は時世を反映して、長大なものが多い。鍛法は入念な「真の四方詰め」で、地鉄は杢目に柾まじり、地沸え美しく、地景・稲妻などしきりにかかる。刃文は尖り心の互の目乱れで、覇気横溢している。切れ味については、みずから「焼刃のあらん限りは、刃味毫も相替り候儀、決而有之間敷」と保証しているだけあって、抜群の評がある。その劇的な生涯と相俟って、人気は幕末刀工中、随一である。

1,山浦家
清麿は文化10年(1813)3月6日東部町赤岩(当時は小諸藩領滋野村)に、山浦昌友の二男として生れた。幼名は環、長じて内蔵之助と名乗る。兄に九歳年上の真雄がいた。山浦家の中興の祖は常陸介信宗と言い武田勝頼の家臣であったが、長篠合戦に敗れた後、信州の赤岩に逃れて郷士となる。徳川の世になってからは名主役を勤む。数えて八代目に当たる。ここの屋敷は随分広く、南側は断崖となって千曲川の激流を眼下に見おろし、その前方には上に望月の牧場を抱く布引山の大きい山塊がぐっと迫って来ている。東方には小諸城が望見され、また西方は遙かに村上氏の故城葛尾山麓の岩鼻を眺め前後6,7里ばかりは歴々たる風景であって、この辺千曲川景観中第一等の場所である。屋敷の南東の二方は崖となり西北の二方には石垣をめぐらして小砦の面影を留めているあたりは昔の郷士邸の備えをしのばせるに十分である。邸の入り口には真雄が建てた「御武運長久」と刻した石灯籠がある。また古さびた庭には「山浦兄弟生誕之処」と書いた碑(昭和15年有志によって建立された)が据えられていた。

2,青年時代の兄弟
兄の真雄は文化元年(甲子の年)八月廿八日に生まれた。名は昇と云う。幼少年の日から剣道の修行に励み、小諸藩の剣術師範について学んだが、廿三歳の時には江戸に出て本格的に一刀流を修めている。武田源氏の流れを汲む者であるとの誇りと、また名主として村の治安面の責任者でもあると云う自覚が剣の道を深く学ばせたことであろう。彼は竹刀の技だけでは満足せず、真剣を以て戦う場合に備えて、各方面から刀剣を試してその得失を調べたのである。ところが当時は永い間の平和になれ来ったが為に刀剣に於ても地刃の表面がただ華美であることだけに意が注がれ、実質に於ては欠けるものばかりが作られていて、彼は二百余口を試したところ一刀も意に適うものが無かったと云う。16歳の時のことである、折柄天領と小諸藩領の間には境界争いが起こり、その訴訟の用で父の代理として出府したが、その節、水心子正秀に一刀を注文した。出来上った刀を早速試してみたところ、どうも気に入らぬ、そこで更に一刀をと再び注文に及んだ。水心子と言えば当時第一等老大先生である。それを田舎者の若僧に作不十分と言われてどうして黙っておられよう、大いに腹を立て、散々罵ったが、結局彼の「剣の道から割出した刀の姿のありかた」の説明に屈し、快く申し出に応じたと云う挿話が伝えられている。この話にもその一端がうかがえる様にその頃の作刀界は一般に日本刀の本質を忘れ去っていたのであって、この風潮に対する不満、憤懣、失望から、やがて彼は自分が理想とする日本刀は自分自らの手によって製作するより他に途はないとの結論に達し、遂に刀造りの世界に踏み出すことになったのである。
年経て、再び水心子を尋ねた機会に、その弟子の氷心子秀世について彼は作刀技の全般に亘り一通りの手解きを受けた。が翌文政12年(26歳)には上田の藩工:河村寿隆の門を叩き本式に鍛刀修行に入った。しかしこの場合でもずっと寿隆の許に滞在して稽古をしたと云う訳ではなく、2年余りの間用務の余暇に通う程度であり、多くは家庭にあって弟の正行(清麿)を相手にしての独学自習であった。真雄が寿隆の門を叩いた時清麿は17歳であったが、兄の勧誘に従って一緒に作刀の研究にはいった。昼は所用が多いのでその研究は大抵夜分にやったのである。ある晩のこと、夜更ける迄二人は一心不乱に鍛造に励んだがどうも鉄が旨く鑠かない、どうしたことかとがっかりしていると傍から父の信友がみていて「お前達はさぞ疲れたことだろう」と云う。これを蔭で聞いていた母親は早速酒を持出して二人にすすめた。兄弟はどちらも好きな方であるので大喜び、殊に弟の正行は小躍りして喜び両親にも進め自分らも呑んだ。そうしている中に時間が経ち、さて取掛ると今度は面白い程に鉄が鑠き、夜のあけるのも知らずに鍛えたと云う。これは真雄の老後の手記「老の寝ざめ」の中にある一節であるが、家庭内が暖かく平和で、また両親が息子達の作刀に対して深い理解を持っていたことを物語っている。文政13年(その時兄真雄は27歳、弟清麿は18歳であった)の4月作の脇指は兄弟の合作刀で、これはそうして雰囲気の中から生まれ出た記念碑的な作品である。この年清麿は隣村大石村の長岡家へ婿養子に行ったが、家が近いことではあるしその後も兄弟は共々にいろんな古鍛法の研究を続けたのである。作刀に寄せる彼等の情熱と興味は日一日と強まるばかりであった。しかしそれなる故に養父母との折合いが悪かった様で、その翌年正行は長岡家を出て実家に帰ってきた。その間に一子梅作を儲けている。

3,松代打ち
松代城は武田信玄が上杉謙信の来攻に備えて山本勘助らに築かせたもので、当時は千曲川が東に依って流れ、堀の役目をしていた。元は海津城とも河中島城とも呼ばれていた。元和8年に真田信幸が上田からここに移され、以来明治維新に至るまで同藩の居城であった。その前の3年間程は酒井忠勝がここを治めていたのである。酒井家はここから山形県の鶴岡へ移っているが、清麿の最後の弟子となった斎藤清人はそこの領民であった。真田藩では松平定信の子の幸貫が八代目を嗣ぐ。彼は天保12年から弘化元年まで老中職をつとめ、海防係を担当している。この事は藩内を非常に緊張させた。大慶直胤に海や雪などと分けて各五十本を一組とする長巻を注文したのは時であり、そしてまた佐久間象山が幸貫に重用され、海外事情の研究を命ぜられたのもこの時である。話は少し後のことになるが、米国からペリーが再来航した時(嘉永7年)に萩藩の吉田松陰が密航を企て、ペリーに拒否されたと云う事件が起こるが、その密航計画については松蔭は師の象山と事前によく相談し合ってのことであった。それが発覚して両人とも捕縛され蟄居の身となるのである。ここでこの話を持ち出したのは後で触れるように「環と萩」の間にはこれを結ぶ何らかの縁の糸があったと思われてならないからである。象山と真雄との間には交友関係があり、象山から真雄に宛てて蕎麦を御馳走したいからとの招待状や真雄から新作刀を見せられて感服した次第を述べる手紙などが残っている。真雄は嘉永6年の初めに上田から松代に移り、長巻百振の注文を受け、それらに対して翌年は言語に絶する程の荒試しを受けたが、見事合格して藩の抱え工となっている。それらの書簡はその頃のものである。
さて話は戻るが、養子に行った先の長岡家を飛び出した環は天保3年には松代に赴き作刀生活にはいった。
(小短刀) 山浦正行 於海津城造之 天保三年八月日
(刀) 一貫斎正行 天保三年八月 十九歳造之
などを初めとして、天保癸巳歳(四年)秋八月の菖蒲造の脇指、天保五甲午歳二月の刀、同年仲冬の鎧通しの短刀などがある。十九歳銘の刀や五年二月の刀は師:寿隆譲りの匂口のしまった拳形小丁子刃をやき、天保癸巳の脇指は互の目乱れを、そして五年の鎧通しには沸つきの激しい乱れ刃を焼いており、短い期間の間に様々の試みをやっている。その動きは巨龍の胎動を思われるものがある。松代は尚武の土地柄にふさわしく注文主が多勢いた様で、塩野入氏とか濤斉(号であろう)氏とか、保土龍氏とかの名が刻まれている。その銘字には楷書や行書の他に隷書をも試みているのであって知識慾も旺盛であった。全刀工を見渡しても隷書銘をきるのは数える程しかいない。銘は正行が主で、稀に秀寿ときっている。
斯様に刀を打つことで身過ぎは立てていたが、剣道の修行は熱心に続けた。兄の真雄も甥の勇も左様であったが、地元である程度の修行を積むと江戸へ出て、然るべき師について磨きをかけると言うのが土地の慣わしであった。彼は松代で柘植嘉兵衛に就いて学んだが、更にもう一段上を、と言うので、その紹介状を持って江戸の高名な先生:窪田清音を尋ねたのである。それは天保6年(23歳)のことと見られている。

4,窪田清音と、武器講と
窪田家は室町時代の末頃に甲州の武田家の臣となったが、一時禄を離れて信州の小室(小諸)に住み、小室坂姓を名乗ったことがあり、信州とは有縁の家である。武田氏滅亡の後家康に仕え寄合(役所のつかない旗本)となった。清音(助太郎・勝栄)の父:勝英は大番役(江戸城警備)についたが在職期間が永かったので清音は62歳になるまで部屋住みの立場におかれた。しかしそのお陰で存分に気楽に武術の修行に励めたし、また武家故実の研究に身をいれることが出来た。外祖父からは居合術、槍術、柔術、砲術などの手解きをうけ、また父からは伊勢派の武家故実について教を受けたが、更にそれらを深め免許皆伝の資格を得ている。が、中でも居合術は田宮流を修め抜群の腕前に達した。そうしたことから安政2年の2月には66歳の老齢であるにもかかわらず校武場(翌年、講武所と改まる)の頭取に任ぜられたのである。ここは折柄おこりつつあった諸外国からの侵略の脅威に備えるために旗本(将軍に御目見え以上の者)と御家人(同以下の者)並びにそれらの子弟達に剣、槍、砲の諸術と水泳を教授する学校として幕府が新設したものである。彼はまたその道の学者としても数多くの関係著書を残しているが、刀剣についても次のようなものがある。
鍛記余論・ねたばの記・刀装記・刃身の記・撰刀記
武術を通じて、彼は旗本や御家人の子弟の面倒を見、また多くは信州松代藩の武道師範柘植嘉兵衛や、高野車之助らとも交わりを重ねていたのであるが、環青年は柘植の紹介状を持って、はるばる江戸に彼を尋ねたのである。武術修行が目的であることを申し述べて入門の許しを請うた。「松代で何をしていたか」と言う風な問に答えているうちに、「ぢゃ一つ刀も打ってみたらどうか」と言うことになり、そこで作って、見せたのが例の天保7年の愛染の意をあらわした平造の脇指であろう。「なかなかやるじゃないか」とその心構えと出来映えに惚れ込んだ清音は環に刀工の道へ進むようにとすすめたのである。刀剣の製作や鑑識その他について一家言を持っている清音のこととて、手本に多くの良刀を見せて指導すると共に、刀は如何にあるべきかを共々に考究しようとした。「鍛記余論」の中には環のことにも触れて次の様に記している。
「映を焼くことは石堂家に伝わっていたが今はそれも絶えた。正行はそれを出そうと色々努力するのだが成功しない。そこで私にも考えてほしいと言う。私はこうしたらどうかと意見を述べてみた。彼は最初は本気にしなかったが、その通りにやってみたところ映が出た。それを土台に研究を重ねて行くうちに本当のものに到着した。似せ者鍛冶の多い中にあって彼こそ本物である」と述べている。
彼に刀打ちをすすめたからには清音は製作の機会を設け、またそれから若干なりとも制作費を入手する場を作ってやらねばならないので清音は門弟の若者に一振ずつ武用刀を持たせることを思い付いた。正行の技術はまだ未熟だし、一方の武道修行中の若侍も大抵は部屋住みの身で、収入は多くはない。その両方を勘案し一人三両掛けの無尽をこしらえ、それを資本にして刀を作り次々と籖で一本ずつ渡してゆく武器講と称する講を結成したのである。一刀三両掛けと言えば、普通は十五両はしたから五分の一の廉価である。清音はその値に相応のものが出来れば、と軽く考えていた。
山浦環正行 武器講一百之一
と刻した刀(天保10年8月の作:27歳)が残っている。これで見ると入講者は百人のようであるし、景気よく百と言う数を選んだようにもとれるが、それが実数に近いものであるとしたならば製作者にとっては容易ならぬ数である。月に五本打ったとしても一年半余はかかる。武用刀だと今更改まって言うのもおかしい話であるが、元禄以後の刀で物の用に立ちそうなのは殆どなかった当時の世相として、それこそ折れず曲らずのがっちりとした良刀を作ることはかなり難事であった。他に学ぶにも刀匠の技法は低下しており、購入するにも素材鉄は一般に疎悪であったから、正行の苦労は察するに余りあった。それにもかかわらず正行は御座なりは許されずとして敢然と本物に取組んだのである。この講の仕事は翌11年も続けている
11年8月の刀と11年10月の試斬銘の脇指が展示されているが、刀は2尺6寸5分の大刀で大切先の堂々としたもので、反りも高い。地は大板目流れでよくつまり、刃は互の目乱れで、沸筋よく走り、金筋も交じる。これだけの良刀はそう容易に打てるものでなく、日数もかかるし、その上出来損ないもかなり出る筈であり、気に入らぬものはすべて廃棄しているから、その費用も馬鹿にはならない。講の人々には次々と早く手渡さねばならぬ仕組になっているから、待ったがきかない。出費は嵩む。進退窮まれりと言う状態になって、彼はとうとう江戸を逃げ出さねばならぬ破目に立ち至った。催促の声の容易に届かぬ遙か遠方を目指してである。なお補足すれば、上記の試銘をきり添えた正行二字銘の脇指は長さが1尺6寸5分弱の菖蒲造で、身幅が広く、重ねは厚く、反りは高めの豪壮な造込みの刀である。これは常時身につけている武用刀は如何にあるべきかと正行が清音と共々研究に研究を重ねた末に到達した理想像としての試作品であって、切れ味は如何にと試斬りをしたところ、横臥させた死屍の太々(腕のつけ根の辺)をきり通し、下にあった土壇へきり込む程の鋭利さであった。勿論刃こぼれも出ずという好首尾であり、言はば証明となるこの結果を踏まえ、これでよしとして、これは幾振も作って武器講の武士達へ頒布した答である。この菖蒲造と鵜首造のタイプの脇指は、後々も改良を加えつつ、多く製作していることが知られる。因みにこの脇指より以前の作で同型のものを清音は佩刀としている。それからするとこの型については早くから正行は考究を重ねていたのであり、清音もまたそのよさを認めていたのである。

5,萩城打ち
正行が辿り着いた先は長州の萩であった。ここは本州の最西端にある城下町で、毛利輝元が慶長9年に築城を始めた処である。橋本川と松本川の間の三角州上に位置する誠に狭く小さい土地であり、城は海岸に突き出た指月山上に営まれている。輝元は慶長5年の戦での石田三成方の総大将として大坂城を守った責任を問われ、家康によって、中国地方の大部分を領し百二十万石の大大名であったのが一夕にして防長二州で三十七万石の藩主に大減封の上、広島から配置替えをさせられた。それまでの萩は日本海に臨む一漁港に過ぎなかったし、城下町となってからもさしたる変化のない静かな佇を続けていた。正行がこの地を訪れた時は、天保12年に始まる幕府を老中:水野忠邦による改革の方針に従って、藩の実力者(奧番頭格)の村田清風による改革(緊縮政策)が行われようとする矢先であった。この改革で毛利藩はかなりの実績をあげ経済的に実力を貯えたと言われる。しかし萩には作刀技を尋ねるに値する程の名工がいた訳でなし、また滞在中の彼に特に援助の手をさしのべた実力者の存在も耳にしない。遺作の中で注文主の名を留めているのは磵西涯や佐々木三郎高義らに過ぎないが、天保13年8月日の紀年作に
於長門国萩城造源正行(刀と短刀)
於萩城山浦正行造之(刀)
於長門国山浦環源正行作(佐々木高義の注文打の刀)
年紀を欠くが、於長門国正行製(磵西涯への恭呈の短刀)
など長門国、詳しくは萩城での製作を明記した作品が何点かあるのであって、誰の許に駐槌したかは不明であるにしても、この2年間に精力的に刀を打っているのは事実であり、相当に注文のあったことが知られる。
鎌倉時代の終の頃に元と高麗の連合軍は大挙して北九州に攻めこんで来たことがある。所謂元寇で、それは一度ならず文永・弘安の二度に及んだ。いずれの場合も時ならずして発生した台風によって敵の全軍船は沈没するに至り、最後の戦闘はわずか2日間程の短いうちに終わったが、再来週のおそれは十分に残っていた。この台風は神風と呼ばれている様に、若しこの天佑がなければわが国の運命はどう変わっていたか、思えば恐ろしいことであった。そこで幕府はそれに備えて博多地区は勿論のこと北は長州沿岸までもきびしく防備態勢を固めたのである。これは遠い昔の出来事ではあるが、その際の恐怖と緊張の記憶はいつまでも語りつがれており、外国に近接する地帯として長州は対外関係では常に敏感にならざるを得ない環境にある。松平定信の寛政時代から始まった欧米諸国からの艦船の来航と、彼等の要求についての情報は当藩にも次々と届いており、天保の頃は丁度それの対応策が真剣に検討されつつあった時である。長州人は外国からの攻撃に対しては断乎として排除しなければならぬとする強い心情を持ち続けており(当藩は攘夷に徹した)、その気持と、外敵に立向うにはそれに打ち勝てるだけの強靱な刀を打出さねばらぬとする正行の精進振りとは大いに共鳴するものがあった。これある故に彼は長州人の間にすぐれた知己を得、太刀、刀、脇指、槍など数々の依頼を受けるに至ったのである。恰も天保13年は彼が30歳の自立の年を迎えた時であり、気力と意欲は十分に充実しており、萩生活は彼にとって誠に仕合わせ日々であったと言えよう。彼の萩行に関しては山陰地方に於ける良鋼の探索や、一時長州にいたことのある安吉を通じて左文字の研究などそれらを目的としたであろう言い、またそれには松代藩の画家三村晴山の紹介で画師の磵西涯をたよって行ったのであろうなどといろいろの推測が行われている。萩への往復に防府(三田尻)を経ていることは確かの様で、天保14年2月の「山浦正行製」銘の大太刀は同地での作と伝えられている。彼は天保12年に萩へあらわれ、同14年の秋頃までにおさらばしていると思われる。長州での年紀作には13年と14年のものがある。銘は「正行」か「山浦正行」、稀に「山浦環源正行」ときっている。山浦姓を名乗るのは信州人であることの表示である。刀はいずれも長大であるが、その一方で可愛いい小短刀(長さ6寸余)も作っている。

6,帰郷と再出府
正行は萩を辞去すると、一旦郷里へ立ち戻った。実に9年振りのことである。海の国の萩とはまた違って、目にする故郷の山野は彼の心をなごませるのに十分なものがあった。早速実家に父を尋ねて健康を祝し、兄弟は久し振りの面会を喜び、作刀技の向上をお互いにたしかめ合った。ここで暫くの間英気を養うことになるが、その間での製品が残っている。
於信小諸城製源正行 天保十五年八月日と銘のある太刀である。
兄の真雄はこの年、名主職を他に譲り刀工として独立を計る。6月には作刀技術研修のために出府することと、扶持を辞退することとを小諸藩に願い出て聴き届けられている。(実際に出府したのは翌弘化2年の10月のことであるが。)9月になると正行は直心影流の剣道師範:島田虎之助の許に入門する甥の勇(真雄の一子で、時に歳は20歳。後の刀工:兼虎)を伴って出府するのである。清音に武器講の不始末を詫び、再び槌を振うことになるが、愈々四谷の北伊賀町に居を構えて独立する。そこは清音の屋敷のあった麹町八丁目、亀沢横丁入り(現在の麹町区四丁目)からはわずかに離れた処である。なお天保15年8月の小諸打には他に2,3口の太刀の作で「源正行」銘や「山浦正行」銘をきったのがある。またこの年真雄は「信濃国寿昌」とか「天然子寿昌」とかきった太刀、刀、脇指などを作っている。

7,江戸定住
四谷北伊賀町の新居に落着き、仕事を始めたのは天保15年の秋頃からのことであろう。九州久留米の藩士武藤積忠の需におうじて作った弘化2年2月銘の太刀は恐らく新生江戸打ちの最初のものであろう。これと同じ年紀の刀と脇指もある。続いて「八月日」銘のものには太刀、脇指、短刀などが知られており、素槍もある。この年に(上総国)正直、鈴木正雄、岩井正俊らが入門している。弘化3年は彼にとって生涯の一転機となった年である。と言うのはかねがね清音のすすめもあったことであろうが、刀工銘を正行から清麿に改めたのである。それは清音から「清」の一文字を恩借しての話であって、清音を「スガネ」と呼ぶのであれば清麿も「スガマロ」と称するのが順当であり、事実左様に名乗っていたのであろう。麿は男子のことであるからスガマロは清々しき男と言う訳であって、誠に彼に相応しい晴れやかな名である。しかし今の人はだれも彼を「スガマロ」とは呼ばず「キヨマロ」と言っている。
さて彼は改名の記念すべき第一作を清音に献呈している。それには
為窪田清音君 山浦環源清麿 弘化丙午年八月日
ときっており、2尺6寸5分の太刀である。丙午の干支は弘化3年で、重要美術品に認定されている。
この改名に関しては「麿」の字は別人の斎藤昌麿からの授名であろうとの説がある。昌麿は上総国(千葉県)君津郡波岡村(木更津市)の出身で、江戸に出て札差になった。札差とは、江戸時代に旗本や御家人の代理として、幕府の蔵から出る切米(春、夏、冬の3回の期限を切って支給される扶持米)の受取方及び売捌方を掌る者のことで、これに対して手数料をとり、また米殻を担保として金銀を貸し付けることを業とした。浅草の蔵前に店を構えた。昌麿を清麿に紹介したのは清麿の弟子で同じ上総国出身の正直であると言う。正直は昌麿から新作刀(新身)注文の話が出たので清麿を推挙したのであるが、両人は忽ち意気投合し、以後清麿は昌麿から財政的援助を受けることになり、それは終世続く。これがあったので清麿は守や掾のをつける受領工になることを望まず、求めず、またどの藩の抱え工にもならず、どこまでも市井の一自由人として、心の赴くままに作刀に従事することが出来たのである。その結果、精気に溢れる良刀が次々と打ち出された。両者接触の初まりは嘉永2年とされている。昌麿の遺愛品の中にはその年に作った二月銘の脇指があり、またその後の作もあるのに、それ以前のものが見当たらないからである。これから推すと、嘉永2年は清麿改銘時より3年後れるので、昌麿からの「麿」授名の話は成り立たない訳である。昌麿は橘守部について国学を修め、雲根斎と称し一冊の歌集を残している。後の安政の大獄の際には小伝馬町の獄舎につながれたが、そこで「夢の浮橋」と題する随想録を著した。彼は慶応2年の3月に没した。享年は65歳。奇しき因縁か、清音も同じその年の12月に逝去している。こちらの方は78歳である。事の序に弘化3年の時点で3者の年令を見ると清麿は34歳、清音は58歳、昌麿は45歳であった。
弘化4年は「4(し)」を避けてどれにも干支の「丁未」を刻している。傑出した作が多く八月日の刀は2口重要美術品に認定されている。同年月日の鵜首造の脇指もなかなかの豪刀である。弘化5年は2月に改元されているので、この年の作刀はどれも嘉永元年紀である。八月日作の大小はどちらもおだやかな出来である。嘉永2年の2口の刀は、どちらも八月日作であるが、一方は荒沸出来、他方は小沸を交じえた匂出来で作風は異なる。この年あたりから銘の字体は大きく太くなり堂々としてくる。嘉永3年のは年紀あるのが5口と推定が2口で、いずれも特色に富む。嘉永4年も「4」を避けて干支の「辛亥」をきる。この年の作で現在わかっているのはこれ一口である。造込は菖蒲造であるが、殆んど反りがなくて剣のように見える。嘉永5年の分は短刀1口と年代推定の刀が1口であるが技術が安定している。嘉永6年のは推定の短刀と刀が各一口ずつある。嘉永7年のは年紀を刻した最後のものである。知られている2口の刀はいずれも正月日である。かれはこの年(1854)の11月14日に自刃して果てた。正月以後その時までの約1年間の活動を跡付ける紀年作が見当たらないのである。42歳とは如何にも若い。何が理由であるにせよ、自ら命を断たねばならぬとは惨酷にすぎる話である。嘉永7年1月の米国東印度艦隊司令官ペリーの再来航、続く3月のペリーとの和親条約の締結、これを契機として国策は開港に向かって進みはじめた。同年中に幕府は英、蘭、露、仏の各国とも和親条約を結んで仕舞ったのである。
刀工としての清麿、彼はこれまで夷(外敵)を討つ(夷)ことに、そして、それに勝ち抜ける刀を作ることに全生命を傾けて来た。その彼がこの世情のの成り行きを見ては、最早、生きる望み絶えたと観じたのも無理からぬ話である。密航を企てた吉田松陰と参謀の佐久間象山が、その年の3月、4月と続いて捕縛されたとのニュースが彼に与えた衝撃も大きかった。彼も幕吏に追われていたと言うが、それは激情家で純情人の彼のこと故、折にふれ、幕府の腰抜けめと口ぎたなく声高に罵倒していたのがいつしか聞こえたからであろう。その程度のことでは捕縛の話は如何であろうか。勤王云々故にと昔は左様に説かれていたが、国論はその時はまだ勤王と佐幕で争う段階にはなく、その前段の開国攘夷の是非が熱っぽく論議されている最中であった。失意の中での深酒が彼の体をむしばみはじめ、やがてアルコール中毒となり手足の自由がきかなくなったことが彼に死を選ばせたものと考えられるが、これが自然ではなかろうか。2月以降製作を絶ったのも上記の様な事情による。彼の後の江戸生活10カ年の間の出来事としては出府の翌年の弘化2ねんの3月に父の昌友が逝去したこと。嘉永2年に勇が今度は刀工になるために彼の許に1カ年修行に来たこと、次は翌嘉永3年に栗原信秀が、続いて嘉永5年に斎藤清人が入門したことなどである。他の弟子達は師の逝去に前後してそれぞれ独立したが、清人は唯一人死去後も1カ年間四谷の家に留って師の刀債の後始末(代作)を果した。

8,逝去
清麿自刃の報は近くに住む清音の許へ、また蔵前の昌麿の処へと伝えられ、その人達の手によって遺体は四谷南寺町の宗福寺に厚く葬られた。飛脚は信州にも走り、遺児の梅作がかけつけた。その時彼は25歳になっていた。生前恐らくは顔を合わせることのなかった親子であろう。彼が携え帰った遺髪を前に空閨を守り続けざるを得なかった妻(みね)の感懐は如何であったであろうか。長岡家ではどこまでも家に迎えた人として清麿を遇していた。言いかえればいつかは帰って来る人として彼を見守っていたのである。東部町大石の長岡家の墓地には義父や梅作(後の武右衛門)らの手によって清麿の立派な墓碑が建てられているが、正面に「大道義心居士」とあり、側面には「義心者長岡久米右衛門之婿養子而梅作の実父也」にはじまり「嘉永七甲寅歳十一月十四日於四谷北伊賀町而卒」とつなぎ、「俗名長岡内蔵之助源正行」で結んだ碑文が刻まれている。因みにこの墓前では毎年信州の刀剣関係者と長岡家の縁故者とで命日の日に追悼会(清麿忌)が営まれている。彼の子孫は大阪府下の守口市と上田市におられて御健在である。また妻(みね)の墓碑は清麿のと丁子形になる位置に建てられているが、これは数人からなる一基の同族碑の中に組み込まれた形(連名)である。それには「内蔵之助妻」と刻している。
宗福寺には昌麿らの尽力によって、これまた立派な碑が建てられたが、翌安政2年10月の江戸の大地震にあって倒壊した。それの石摺によると「山浦清麿之墓」と隷書で記され、側面には楷書で「安政元甲寅年十一月十四日 行年四十二歳」と書かれている。嘉永7年は11月27日に安政と改元されたので、これはその方に従ったのである。
彼の墓は倒壊したまま永く無縁仏になっていた。それを明治31年に刀匠の桜井正次(卍字正次)らの骨折りで再建されたのが現在の碑である。正次の談によると清麿の墓地を探し出すのに(宗福寺にあることを確認するのに、そしてまた建碑の費用を捻出するのに)大変な苦労をしたと言う(子孫の聞書)。追憶をたどってのことであるだけに碑文には2,3の誤記がある。ここでも毎年有志によって追悼の清麿会が催されている。
清麿の墓はもう一基あるそれは弟子の栗原信秀が高野山の奧院に建立したもので、彼が幕府の長州征伐軍に従って大坂に出向いた時に、である。これは「山浦清麿之墓」と刻している。真雄も生地と上田(大輪寺)と松代(大林寺)の3カ所に墓碑が建てられており、この兄弟は墓持ちである。それだけ人々に追慕される性格の持主達であった。

刀 銘 為窪田清音君 山浦環源清麿製 弘化丙午年八月日 (重要美術品)
長さ:2尺6寸4分
身幅広く切先延び長寸でやや反り高い姿である。鍛えやや肌立ちごころ地景入り、地沸つく。刃文沸出来湾れと互の目交じり、金筋、砂流しよくかかる。表裏に二筋樋を掻流す。注文者の窪田清音は幕臣で軍学者であると共に清麿の後援者であり、指導者でもあった。

脇指 銘 信濃国正行 天保癸巳歳秋八月 窪田清音佩刀
長さ:1尺6寸6分余
癸巳は天保4年である。これは出府に際し正行が携えてきた一刀で、その形と寸法が気に入り窪田清音が佩刀としたものであり、その由を刻している。

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