村雨助広(むらさめすけひろ)

  • 刀 銘 津田越前守助広 村雨 延宝六年二月日 (号:村雨)
  • 長さ 2尺7寸4分(83.0cm)
  • 反り 1分4厘(4.2cm)

村雨助広は、日置流弓術の秘伝:村雨が、葉末においた朝霧に、村雨がさっと降りかかると、露がころりと落ちる、あるいは村雨の風で、草木がぱっと分かれる。と説明されているように、この刀で斬れば、首がころりと落ちる、あるいは体がぱっと二つに分かれる、という意味で、切れ味を讃えた刀の号につかわれる。

大坂城代:青山宗俊の命により、津田越前守助広が四十二歳の時に作刀した豪刀で、「村雨」と号し、青山家に代々継承された。青山家では、常に秘蔵して、雨乞いの時にのみ出したものとの伝承があるが、現に延宝六年の春から夏にかけて、東海・南海・西海地方に日照りが続き、この期に製作されていることからも首肯されよう。さらに表裏腰元に梵字が見られるが、表(佩裏)のそれは「大威徳明王」を、裏(佩表)のそれは「摩利支天」をあらわしており、このことからも、「村雨」の刀は「五穀豊穣」と「雨乞い」の願いを込めて作刀されたものと推せられる。

形状は、鵜首造、庵棟、身幅一際広く、長寸で、重ね一段と厚く、踏張りごころがあり、反り深くつく。鍛えは、小板目肌最もよくつみ、地沸微塵に厚くつき、地景細かによく入り、かね冴える。刃文は、直ぐの短い焼出しごころがあり、その上は直刃調浅くのたれごころをおび、処々小互の目連れて交じり、互の目足頻りに入り、葉を交え、匂い深く、小沸よくつき、部分的に荒めに沸強く、一段と厚くつき、細かに金筋・砂流しかかり、棟を焼き、匂口明るく冴える。帽子は、直ぐに小丸に反り長く、中程やや上辺まで焼き下げ、先佩きかける。彫物は、表裏鎬筋を中心に、刀身全面に倶利伽羅の彫物と、その下に梵字がある。茎は、生ぶ、先一際深く反り、入山形、鑢目(表)筋違・(裏)大筋違に化粧(香包鑢)つく、目釘孔一、佩表棟寄りに「丸津田」七字銘と、その横平地中央に銘字よりほぼ一字下げて「村雨」の添銘があり、裏同じく表銘より半字上げて草書の年紀がある。

身幅が一際広く、長寸で、重ねが一段と厚く、反りの深くついた造込みに加えて、鵜首造と異風な姿態を見せており、さらに茎先を極端に反らせるなど興味深い形状に仕上げられている。或いは青山家から特別に指示がなされたものであろうか。鍛えは小板目肌が最もよくつんで、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、刃文は直ぐの焼出しごころがあり、その上は直刃調に浅くのたれごころをおび、処々小互の目が連れて交じり、互の目足が頻りに入り、葉を交え、匂深で、小沸がよくつき、部分的に荒めの沸が強く、一層厚くつき、細かに金筋・砂流し等がかかり、棟を焼いている。また帽子は直ぐに小丸に反りが長く、中程やや上辺まで焼き下げ、先を掃きかけるなどの出来口をあらわしている。常々に見る作域とは趣を異にしているが、流石に鍛えは精良で一段と優れており、焼刃は匂深で小沸がよくつき、地刃共に一際明るく冴えわたっているなど、正に助広の真骨頂を発揮している。同作中の傑作で、しかも資料的にも頗る貴重である。
また助広の作には、この様な濃厚な彫物は稀有であり、また倶利伽羅の彫物も「寛文八年八月日」紀の脇指などに僅かに経眼するのみである。助広の作には彫物が僅少であることから推して、おそらく、この村雨助広の彫物も助広の自身の彫ではなく、専門の彫物師、就中、長坂遊(推)鵬軒の手になるものと思われる。助広は当時の大坂鍛冶の作刀を中心に彫物を施しており、その遺例を、「貞享三歳八月日」紀並びに「貞享四歳八月日」紀の津田助直の脇指や、一竿子忠綱の脇指、伊勢守国輝の脇指などに遺している。
なお村雨助広には、黒蝋色塗鞘赤銅唐草文総覆輪兵庫鎖太刀拵が附帯されている。製作年代は村雨助広と同様、江戸時代前期と鑑せられ、出来が優れている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺7寸4分(83.0cm)
反り 1分4厘(4.2cm)
元幅 1分1厘(3.4cm)
茎長さ 5寸9分7厘(18.1cm)
茎反り 3分(1.0cm)

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