波平行安
波平行安(なみのひらゆきやす)
- 国:薩摩国(鹿児島県-西部)
波平行安は、薩摩国谷山郡谷山郷波平に住した波平派の刀工である。波平は現在の鹿児島県鹿児島市上福元字波平にあたり、古くから波平鍛冶の故地として知られている。「浪平」とも書かれ、刀銘にも「浪平」「波平」と切るものがある。
波平派の始祖は正国とされ、永延(987)頃に大和より下向したという説が通説とされる。一方で、京都から移住したとする異説もあり、波平鍛冶の伝承にも京都より移ったという話が伝えられている。また、三条宗近が伝授を受けに来たという伝説もあり、古くから由緒ある刀工群として語られてきた。
波平付近の海岸は浜砂鉄の豊富な産地で、刀剣製作に適した土地であった。波平鍛冶の淬刃の井と伝えられる場所も、上福元や笹貫に残っていたとされ、昭和15年には石碑が建てられている。昭和29年の鹿児島県立工業試験所による浜砂鉄の分析では、波平付近の和田、七ツ島、五位野などで高い鉄含有量が確認されている。
行安は、波平派の中でも古い時代の刀工であり、現存する波平派の作は行安から始まるとされる。そのため、行安を実質上の波平派の始祖と見る考えもある。通称は太夫、または与三衛門太夫と伝えられる。
行安の時代については諸説があり、永延(987)、寛弘(1004)、寛仁(1017)、承暦(1077)、承徳(1097)など平安朝期とする説と、弘安(1278)、文保(1317)、元徳(1339)など鎌倉期とする説がある。波平鍛冶の後裔である橋口家の家伝では、行安の2代目が島津忠久の薩摩下向の際に刀を献上したとされる。この伝承を踏まえると、行安初代は平安時代末期の人と考えられる。
また、愛知県の猿投神社に伝わる「行安」からみても、行安初代は平安時代末期を下らないと見るべきであるとされている。
行安には、一晩に刀千本を打つという伝説もある。ある若侍が、夜明けの一番鶏が鳴くまでに千本の刀を打ち上げると申し出たが、鍛冶場を覗くと、その姿は大蛇となって小蛇を相手に刀を打っていた。父親が鶏を鳴かせると、大蛇は驚いて姿を消し、999番目の刀に「波平行安」と銘が切られていたという。
古い行安の作風は、踏張りのある太刀姿で、地沸の豊かな板目肌に杢目を交え、沸出来の直刃や小乱れを焼く、気品の高いものであったとされる。時代が下がるにつれて、地沸が少なくなり、綾杉肌を交えた地肌となり、刃中の働きも乏しくなって気品が薄れるとされている。
(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)





