人間無骨(にんげんむこつ)

  • 槍 銘 和泉守兼定(号:人間無骨)
  • 長さ 1尺2寸7分(38.5cm)

 

美濃国金山城主:森武蔵守長可が17歳の時に、天正2年(1574)7月、織田信長の伊勢国の長島城攻めのさい、敵の首二十七級をあげた十文字槍(上向鎌十文字槍)には、表に「人間」、裏に「無骨」の文字の彫物があった。作者については和泉守兼定説と、和泉守兼貞説とがある。彫物の位置も、前者では十文字の鎬筋が交差する所、後者ではその下、塩首(けらくび)の上になっている。森家では、この槍はつねに玄関にかけてあり、行列のときは一番道具になっていた。後に模造の槍をもってこれに代え、真物は居城である播州赤穂城に置くことにした。人間無骨は終戦後、森家を出て、いま遽かに所在を確かめ得ない。

十文字槍、鍛板目、小沸つき、刃文は直刃ほつれ、沸附き、砂流しかかり、穂帽子、横帽子ともに小丸になり少しく掃掛けごころあり、塩首平に表に「人間」裏に「無骨」と刻あり、茎は生ぶ、長さ一尺七寸五分、鑢は筋違、表に細鏨に「和泉守兼定」と銘がある。
人間無骨の槍は天正二年織田信長が勢州長島を攻めた時に、濃州金山七万石を領した森武蔵守長可が、生年十七歳此の槍を振って、敵の首を取ること二十七級、信長大いに之を賞し、為に人間無骨の号を入れたものであるといふ。
東京 子爵 森俊成
(紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会出陳刀図譜:遊就館 昭和15年:1940)

表ハ如図裏ノ樋ハ穂ノ鎬左右三筋枝ノ左右ハ表ノ穂ノ如クニテ表ノ人間トアル所ノウラニ無骨ト彫物アリ
穂長一尺二寸五分幅一寸二分余重三分余
濃州金山七万石領森勝蔵後号武蔵守源長可天正二年甲戌七月信長公攻勢州長島城干時長可十七歳進先登取首二十七級仍号人間無骨
和泉守兼貞ト銘 忠長一尺七寸五分 横長一尺一寸五分
表ノ彫人間トアリ 無骨トウラニ彫
鞍森候世々行列ニ所被為持之槍也
(本朝鍛冶備考)

長さ一尺二寸五分(37.8cm)、横一尺一寸九分(36.0cm)、竪横共幅一寸一分五厘(3.4cm)
銘「和泉守兼定作」、首の表に「人間」、裏に「無骨」と文字の切付があり、幹と枝に細かい樋を掻いている。
天明元辛巳年七月
森伊予守ノ臣 河野次郎平通綸
鎗ノ刃ニ紙ヲ置タル図求得テ
江藤翁人写之
寛政四年十月廿七日
田中進平政均写之
(槍の絵図)

人間無骨を江戸時代後期の森家では、重器として赤穂城内にとどめ、大名行列には複製で代用していた旨が「甲子夜話」に記されているが、同逸話を裏付けるものとして「古今鍛冶備考」に本歌の押形が掲載され、「本朝鍛冶考」には複製の絵形が掲載されている。この二書の記録を比量するに、本歌・複製の二筋は瓜二ツというものではなく、刃文をはじめ、全長や筋樋の本数、文字彫りの位置などに差異が見出される。古今鍛冶備考には和泉守兼定と刻銘されているのに対し、本朝鍛冶考は解説に和泉守兼貞と書き記してあるのは、複製といえどもそのままに写しては偽銘作と紛れることを厭い、表音を同じくする鍛冶銘にしたものであろう。なお、本朝鍛冶考には「森候世々行列ニ所被為持之槍也」の付記があり、複製を行列に使ったという記述との一致を見るが、残念ながら今はこの二筋とも行方が定かではない。
赤穂鍛冶の則之が天保4年(1833)に人間無骨の槍の模作を製作している。その刻銘を見ても明らかなように、古今鍛冶備考及び本朝鍛冶考に所載されているものとは別物であるが、藩候森家伝来の名槍、和泉守兼定に私淑する則之がこれを写していたことは、両槍に代わる赤穂史資料といえ、貴重である。なお刻銘の鍛焉は「これを鍛える」と読む常套語であり、幕末期の刀工に好まれた。

槍 銘 赤穂住則之五拾一歳鍛焉 天保四巳二月吉日
法量 穂長:391mm 横長:341mm 茎長:445mm
彫り 表裏、枝とも筋樋を掻き、枝鎬より下に「人間」、裏の同位置に「無骨」の文字をか細く陰刻する。

人間無骨は刀槍の鋭利なことを譬えた語で、織田信長が家臣のさしていた長船清光の刀をもって、罪人を試したところ、人間、骨無きが如くだったので、家臣から召し上げ、「人間無骨」と名づけ、自分の差料にした。それは出羽国天童藩主の織田家に伝来、奥州盛岡藩士:小松原甚左衛門も、幕末に拝見している。
美濃国関鍛冶で若狭守氏房の弟である権少将氏貞の平造りの脇指に、指裏に倶利伽羅、裏に「人間無骨」の文字を彫ったものが現存する。

森長可は、美濃金山の城主:三左衛門可成の次男で、兄:可隆が早くに戦死したため、家督を継ぐ。武蔵守の官位を受領したので「鬼武蔵」の異名を持つ猛将だった。天正10年(1582)、織田信長の甲州征伐に従軍し、信濃国のうち、更科、埴科、高井、水内の四郡を与えられ、海津城に拠って、上杉景勝に対する備えになった。間もなく起こった本能寺の変によって信長が斃れると、信州の新領を失い、本領の美濃金山に帰り、信長の三男:織田信孝に仕えた。次いで、信孝と秀吉とが不仲になったとき、信孝を去って秀吉につき、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いに加わり、家康の本拠:三河を突こうと深入りして徳川勢に取囲まれて討死した。27歳であった。次弟:長定(蘭丸)、三弟:長氏(力丸)はともに信長の寵臣であったが、本能寺の変に、信長に殉じたことは、長可の討死よりも或る意味で有名である。

赤穂藩森家は、赤穂浪士事件で有名な浅野家改易のあとをうけ、森長直が二万石で入封した。森家の先祖:可成は織田信長につかえ、その子:長定は「蘭丸」と称し、本能寺ノ変にさいし、主君信長に殉じて名をあげた。蘭丸の末弟:忠政が家をつぎ美作国津山(岡山県津山市)十八万六千石の城主となった。津山五代藩主:衆利のとき、衆利が発狂し、お家が取り潰されるが、三代:長武の弟:長直が召し出され、森家はお家の再興が許された。
延享4年(1747)、森家五代:忠洪により藩政改革がおこなわれた。勤倹貯蓄を奨励、藩主みずから私的な費用を節約して範をたれた。塩田開発や、蝋燭の原料の櫨の植樹をふやした。しかし財政悪化はとまらず、十代:忠徳のとき借財は27~28万両という巨額に達した。このため塩を藩の専売制にしている。
幕末の安政4年(1857)頃より、藩内の保守革新の争いがおきている。革新派の一部は脱藩し、尊攘派の牙城ともいうべき長州藩へ奔った。
赤穂市街の南に赤穂城址がある。現在、全域が国の指定史跡になっている。城郭は、明治18年(1885)頃、隅櫓や城壁がとりこわされ、塀が埋められて荒廃したが、昭和30年(1955)、大手門・大手隅櫓・城壁の一部が復元され、平成8年(1996)本丸門が復元された。城址のなかに大石良雄宅跡があり、大石神社が建てられている。また市内にある花岳寺(曹洞宗)は、浅野長直が開いた。赤穂義士四十七人の墓がある。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
穂長さ 1尺2寸7分(38.5cm)
身幅 1寸2分(36.4cm)
横長さ 1尺2寸6分(38.2cm)

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