大倶利伽羅(おおくりから)

  • 指定:重要美術品
  • 刀 無銘 相州広光 (名物:大倶利伽羅広光)
  • 長さ 2尺2寸3分(67.6cm)
  • 反り 4分5厘(1.7cm)

 

 

大倶利伽羅は、相州広光作の刀で「享保名物帳」に所載するが、古い「名物帳」には載っていないので後から追記したことになる。伊達政宗に江戸城石垣修築の命がくだされ、元和6年(1620)に竣工したが、政宗は在国中だったので、11月21日、嫡子:伊達美作守忠宗をよび出し、将軍:徳川秀忠より大倶利伽羅を与えた。貞享4年(1687)卯月29日、研ぎのためであったろう、本阿弥家に来たので、刃長を測ったところ2尺2寸2分5厘強(約67.4cm)だった。「名物帳」にもこの刃長が書いてあるが、伊達家の記録はすべて2尺2寸3分(約67.7cm)。将軍家から拝領したとき、すでに五十枚の小札がついていたが、安永7年(1778)12月、百枚の下札に格上げになった。
刀号は佩き表に大きな倶利伽羅、つまり剣巻の竜を彫ってあるのに因んだものである。裏には腰樋と添え樋があるだけである。地鉄は大板目、刃文は直刃調の小乱れで、盛んに刃縁ほつれる。中心は目釘孔一個、大磨り上げ無銘となる。大倶利伽羅には見事な刀拵えがつけてあった。目貫は後藤光乗作で、代金六枚、小柄は後藤宗乗作で三枚の折紙で、ともに延宝9年(1681)3月7日付だった。大倶利伽羅は明治17年8月、仙台から東京に移され、関東大震災も免れたので、昭和9年12月20日、重要美術品の認定をうけた。ただし、戦後は伊達家をでている。

伊達家の蔵刀目録には、寛政元年(1789)、御刀奉行:佐藤東蔵が、藩主の命により編集した「剣槍秘録(けんそうひろく)」全四巻、文化14年(1817)3月、田中杢右衛門・村上栄助の両名が編集した「御腰物方本帳」全六巻がある。伊達家をはじめとする島津家・上杉家・佐竹家などの鎌倉時代より続く歴史ある大名家には、その蔵刀に名刀が多く納められている。大倶利伽羅は「剣槍秘録」では一巻:27番に記載がある。伊達家の蔵刀には例えば「春二号 貞宗」というように春・夏・秋・冬の四季と番号が厚紙札に記され、刀袋の緒に括り付けられている。また、中には白鞘の柄にその季節と番号を朱書きしたものもある。大倶利伽羅は「春三号」となり、「春一号」は敢えて選ばずに無く、「春二号」は重要文化財に指定される短刀 無銘 貞宗(名物:太鼓鐘貞宗)となっている。「剣槍秘録」に所載する刀剣は、のちに重要文化財に6振、重要美術品に6振(大倶利伽羅を含む)が指定されており、その中にあって大倶利伽羅が太鼓鐘貞宗に次ぐ「春三号」としていることは、伊達家において如何に重宝視していたかを物語っている。

大倶利伽羅広光 御刀
無銘磨上、長弐尺弐寸三分(約67.6cm)。広光五拾枚極と在、安永七年(1778)12月、百枚まで之下見。
「秘録」「御記録」云、元和六年(1620)10月(日不知)、江戸御城石壁御普請成就に付、秀忠公より御拝領なり。
「御帳」云、台徳院様(秀忠)より、義山様(忠宗)御拝領。元和六年十月(日不知)、但、同年春、江戸御城二之丸追手口外形、其外石壁御普請被仰蒙、御造成なり。

「剣槍秘録」では、巻一は、伊達政宗(初代藩主・17代当主)から斉村(8代藩主・24代当主)まで、太閤秀吉や徳川家康から家重までの歴代将軍家、及び禁裏から拝領したもので、したがって道具の内容も優れたものが多く「鎬藤四郎」「別所貞宗」「大倶利伽羅広光」「陸奥新藤五」の4点の名物が含まれる。巻二は、他家、家臣、その他から贈られたもの、歴代の伊達藩主の血縁者間で相続されたもの、巻三は、「御代々御指之部」とあり差料として使われたものを記す。巻四は、「御指並之部」46口、「御国新刀之部」33口、項目不明59口、「御子様御兄弟様方江被進物ニ可然之部」49口、「御鎗長刀之部」39口を載せる。
昭和8年、本間薫山先生が東京:大井の伊達邸にて調査を行われており、注釈は調書よりの内容となる。

「剣槍秘録」 巻一 二七
一 大倶利伽羅広光御刀磨上無銘 長弐尺弐寸三分
代金 五拾枚突と下札 安永七年十二月百枚迄之下見札直ル
御記録云元和六年十月日不知 江戸御城石壁御普請成就ニ付従 秀忠公御拝領也
御帳云従 台徳院様 義山様御拝領元和六年十月日不知 但同年春江戸御城二之御丸追手口升形其外石壁御普請被 仰蒙御造畢之節也
一御鎺上下金無垢地鈩
一御切羽金無工
一御鐔赤銅分銅疎金覆輪
一御縁赤銅魶子中樋 一御柄鮫黒塗
一御目貫御笄赤銅魶子桐鳳凰 御目貫御笄作光乗金六枚極有
一御小柄赤銅魶子倶利伽羅龍裏金哺 右御小柄作宗乗金三枚極有
一御小刀平安城藤原金重 一御鞘黒塗
一御鵐目金 一御柄白革 一御下緒紅
一御袋表浅黄純子銘縫有裏茶丸御練繰
一箱黒塗几帳面縁懸共金粉沃懸銘書金粉鐶甲銀
一御三所物相入箱右同断

刀 無銘 広光(名物大倶利伽羅広光)
法量:刃長2尺2寸2分強、反4分5厘、元幅1寸1分、先幅9分、元重2分、先重1分8厘、鋒長2寸3分、茎長5寸7分
形状:鎬造、三つ棟、重ね厚し、大切先
鍛:板目肌約つ沸厚く鍛よろし
刃文:下半小乱、焼巾尋常、上半代乱、飛焼棟、鎬地をやき、ひたつらごころ、匂深く小沸つく。指裏上半最も大出来にしてここに広光風あり。
帽子:一枚。
彫物:指表、鎬に腰樋、添樋のあとあり。裏、大倶利伽羅、その上に火焔を添える。
茎:大磨上、先刃上栗尻、鑢目切、目釘孔一。
〔備考〕春三 昭和9年12月20日、重要美術品認定。認定時の所有者は東京・伊達興宗氏(32代当主)

明治期に伊達家の宝物類を記録した「観瀾閣宝物目録」には下記のように記されている。
観瀾閣宝物目録宝物目録巻之三 戌之部 刀剣類
第四十三号 甲ノ甲
一相模国広光 長二尺二寸二分余 代金百二十五枚
一本阿弥成善曰初代至極宣シ申分ナシ相州正宗ノ子観応年間ノ人
一安永七年十二月本阿弥極広光五十枚極ト在百枚迄之下見札二葉無銘銘磨上表腰樋裏倶利伽羅切物二尺二寸三分
一安永七年十一月御研平市十郎被相登節本阿弥ヨリ下ル書付一通ニ曰倶利伽羅彫物有之刀今分ニテハ相州広光ト相見得申候金七十五枚様子ニヨリ百枚可致候仕立直ニテモ致候得ハ吟味之上若相州正宗(※原文は真宗)ニ相成候ハゝ金二百五十枚様子ニヨリ三百枚可致物ニ御座候
一鎺上下金無垢金目十匁三分
一切羽金無垢金目三匁四分
一鍔赤銅覆輪金
一縁赤銅魶子柄塗鮫
一柄白革巻頭角
一目貫笄赤銅紋桐鳳凰作光乗代金六枚延宝九年三月七日折紙後藤四郎兵衛光伯
一小柄赤銅紋倶利伽羅龍裏金哺作宗乗延宝九年三月日折紙金三枚後藤光侶
一小柄平安城藤原金重
一鵐目金金目八分
一鞘黒塗研出
一袋純子裏茶丸萌黄緒付
一此刀ハ元和六年十月将軍秀忠公ヨリ義山公御拝領江戸城二丸追手口升形其外石壁御普請被候蒙落成ニ就テナリ

宝第十九号 大小刀小道具 御刀筒并箱
第六号
一金梨地銀杏蒔絵御刀箱
箱銘大倶利伽羅広光太鼓鐘貞宗ト金銘

註釈刀剣名物帳(高瀬羽皐:著 大正2年刊)には「松平陸奥守殿(仙台伊達伯爵家) 大倶利伽羅廣光 長弐尺弐寸半 代千貫 彫物故名付るなり。此由来分からず、仙台藩の若林靖亭の語りしとて其孫の説に『大クリカラ』と云は政宗常に軍陣に帯たる刀にて業物なりと、或は然らん。」とある。

相州広光は、貞宗に次いで南北朝時代の相州に出現した刀工で、秋広とともに皆焼の刃文を得意として焼き、斬新で華麗な作風を展開した。皆焼ごころの出来はすでに貞宗にも稀に見られるが、それは無作為のもので、広光・秋広になって本格的な皆焼刃の完成を見る。広光の作刀には有銘の太刀は唯一振のみで、多くは時代の特色を示した大柄の短刀・脇指であり、秋広には極めて稀に小太刀・打刀風の本造の脇指がある。広光の年紀作は観応が古く、文和・延文・康安・貞治とあり、一方、秋広は延文が古く、貞治があり、以後広光には見ない応安・永和・康暦などがあり、従って、秋広は広光より少しく後輩とみなされ、秋広の体配に広光より小振が多いのは時代による姿の推移とおもわれる。両者の刃文は丁子が目立って俗に団子丁子と称せられる頭の丸い独特の丁子刃がみられる。稀に、広光には新藤五国光や藤三郎行光に通じる直刃の作例もみられ、「光」の字を通字とすることも相州鍛冶の正系である証しといわれる。尚、広光の手癖によるものなのか乱刃・直刃に拘わらず刃区より45度くらいの短い水影がたつものを往々にみる。広光の在銘の太刀は、同じく重要美術品に認定され、越前福井松平家に伝来し、今村押形に所載する。太刀 銘 相模国住人左衛(以下切)(左衛門尉広光)文和二年(以下切)、2尺4寸8分(75.1cm)となっている。

太刀と打刀の違いは、太刀は、概して反り高く、刃を下にして腰に佩くものをいう。2尺前後(約60.6cm)の小振りのものを小太刀というが、これは比較的に少ない。3尺(約90.9cm)を超える長寸なものを大太刀という。太刀は平安中期以降に始まり、室町初期(応永頃)までである。打刀に交じって室町後期頃までは稀に太刀がある。江戸期には奉納用や太刀拵の中身として作ったもの等を除けば見られない。
刀は2尺(約60.6cm)以上の長さで腰に指すものをいう。鎌倉時代にはすでに打刀の先駆けと思われるものが極く僅かにみられ、室町初期(応永頃)に打刀があらわれたが、まだ少なく、以後多くなり、室町中期以降のものはほとんど打刀である。寸法によって2尺(約60.6cm)のものを刀、2尺(約60.6cm)以下1尺(約30.3cm)以上を脇指、1尺(約30.3cm)以下のものを短刀と呼ぶ。この分類法でいえば、戦国期に作られた2尺未満(約60.6cm)のもので用途上は打刀であっても脇指、寸延びの短刀で1尺(約30.3cm)を超えるものは脇指ということになるが、便宜上このように分けているわけである。太刀と刀では外装の様式も異なるので、刃区から目釘孔までの寸法は、太刀は約9cm(成人男性における手の甲の幅くらい)、刀は約8cm(成人男性における手の指の第2関節と第3関節の間の基節辺で、人差し指から小指まで4本分くらい)が一般的といわれている。太刀と刀の目釘孔位置の差は約1cm(目釘孔1ヶ分くらい)ということになる。
磨上げの度合により太刀から刀となるものがある。太刀で在銘のものは磨上げられていても、茎尻に一字でも残っていれば太刀になる。無銘には2種類があり、ひとつは元来から無銘、または摩耗などにより銘が見えなくなり無銘になってしまったもの、もうひとつは大磨上で銘字より上部まで磨上げられたものとなる。太刀の定義としては、平安から室町初期(応永頃)までの製作と思われるもので、長寸・反りが高い・腰元の踏張りの有無・生ぶ孔が残っているか、そして姿に太刀の風情があるかなどから総合的に判断される。生ぶ、或いは、磨上げのものは太刀の用件を満たしていれば太刀と判断される。磨上げ、大磨上のものは太刀の用件を満たしていなければ打刀と判断される。
額銘は大磨上ののちに銘字部分を短冊状にして茎に入れたものをいうが、佩表と佩裏に入れたものの2種類がある。佩表に額銘を入れたもので太刀の用件を満たしているものなかには、太刀と判断されているものもあるので、全てが打刀というわけではないようである。折返銘といって磨上げの際に銘字部分のみを反対側の指表に折り返したものは概ね打刀といえる。金象嵌銘・朱銘のものは、打刀と判断されるものが多いようであるが、佩表に金象嵌銘・朱銘が施されたもの、まれに佩裏に施されたものでも、太刀の用件を満たしていれば太刀と判断されているものもある。
各々の時代毎や太刀拵・打刀拵といった外装の様式により、太刀にも打刀にもなりえる可能性や例外もあるので、全てを一概に判断することは難しいといえる。

大倶利伽羅の磨上げは、生ぶ孔が残っていないことや、倶利伽羅の彫物の位置からしても大磨上であり、重要美術品の認定時に刀と判断されたものと思われる。倶利伽羅の彫物は磨上げと摩耗により見えなくなっているが、龍の胴体の下には三鈷柄剣の三鈷部分があったはずである。実際に、大倶利伽羅と同手の彫物とおもわれる平造り脇指が遺されているが、倶利伽羅の剣部分やはり三鈷柄剣となっている。彫物の位置から勘案すれば、元来の生ぶの刃区はちょうど茎尻辺か、さらにその下と推察される。現状で、刃長2尺2寸3分(67.6cm)、茎長さ5寸7分(17.3cm)であるから、反りの誤差があるものの元来の長さは2尺8寸(約84.8cm)~2尺9寸(約87.9cm)か、それを超える大太刀に近いものであったのであろうか。
相州広光の作品には、国宝は無いものの重要文化財が2振、重要美術品が12振ある。重要文化財は全てが平造りの脇指となり、長寸の太刀、或いは刀のものはない。一方、同じく南北朝時代を代表する相州鍛冶で、広光よりも年代的にもやや後輩とされる秋広には、やはり国宝は無く、重要文化財が3振、重要美術品が6振ある。短刀が1振の他に、明徳3年紀の太刀と無銘の刀が重要文化財に指定されている。大倶利伽羅は重要美術品のなかにあっても、その最右翼と目される南北朝時代の相州物を代表する優れた作品と言っても過言ではない。

剣槍秘録に記載する内容によれば、附帯する拵は鞘は黒色塗り、小柄は倶利伽羅図、笄と目貫は桐鳳凰図となる。鐔は赤銅地に金覆輪をしたもの。柄は黒塗り鮫を着せ、白革を巻き、縁は赤銅魚子地となる。下げ緒は紅色であったという。黒色塗鞘打刀拵であったということになり、製作されたのは少なくとも将軍家から拝領した元和6年(1620)以降の江戸時代のものと思われる。あるいは、目貫と笄に折紙が発行された延宝9年(1681)頃であった可能性が考えられる。目貫を柄前に白革で巻いた状態で、後藤家が鑑定を行い折紙を発行することは不可能であるから、延宝9年(1681)頃か、或いは、それ以降の製作と考えるのが自然といえる。金無垢二重竹に雀紋鎺が附帯する。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

 

(法量)
長さ 2尺2寸3分(67.6cm)
反り 4分5厘(1.7cm)
元幅 1寸1分(3.3cm)
先幅 9分(2.7cm)
元重ね 2分(0.6cm)
先重ね 1分8厘(cm)
鋒長さ 2寸3分(0.54cm)
茎長さ 5寸7分(17.3cm)

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