典厩割(てんきゅうわり)

  • 刀 無銘 備前三郎国宗 (号:典厩割)
  • 長さ 2尺3寸(69.8cm)
  • 反り 5分6厘(1.7cm)

 

典厩割りとは上杉謙信が川中島の戦において、武田信玄の弟:左馬助信繁を斬った刀をいい、典厩(てんきゅう)とは左右の馬寮の唐名となる。刀の作者については異説が多い。

備前長光説
赤小豆粥と異名のある二尺五寸(約75.8cm)、赤銅造りの太刀だった。柄は茶色の糸巻きで、一尺(約30.3cm)ほどの手貫き紐がついていたともいう。

波平行安説
謙信ははじめ槍で闘っていたが、それを投げすて、波平行安の三尺(約90.9cm)余の大太刀で、信繁の兜の真っ向を切り割った。その後は行安の刃がささらのようになったので、手掻包行の太刀で闘ったという。

備前三郎国宗説
永禄7年(1564)3月、北条氏と呼応する諸城を屠るため、関東に馬を進めた上杉謙信を援けるため、馳せつけた佐竹義重に対して、謙信が感激して贈った備前三郎国宗の太刀が、典厩割りだったという。刃長三尺三寸(約100cm)あったのを、佐竹家で二尺三寸一分(約70.0cm)に磨りあげ、秋田正阿弥重恒作、定紋入り金具付きの太刀拵えをつけた。
元禄11年(1698)編の「浮木覚書」を初めとする、佐竹藩士の著述には、この国宗の異名を「夢切り」として、由来を詳述しているが、典厩割りとした記述はない。典厩割りとしたのは、明治29年刊の「秋田沿革史大成」が初めてである。

本阿弥光悦押形所載
刃長は不明だが、佩き表は切り刃で、幅広の樋のなかに、鍬形・香箸・梵字の浮き堀り、裏は鎬造りで、草の剣巻き竜を彫る。「長谷部国重」と在銘、裏に「永禄元年十二月十五日 上杉入道謙信所持」、と所持銘のあるもので、「てんきうわり 上杉とのより」、と注記がある。上杉輝虎入道宗心が、入道謙信と改名したのは、元亀元年(1570)または天正2年(1574)というから、永禄元年(1558)には、まだ「入道謙信」にはなっていなかった。すると、この所持銘は疑問ということになる。

形状は、鎬造、庵棟、身幅やや広く、大磨上ながらも反りやや深く、中鋒伸びる。鍛えは、板目肌つみごころとなり、地沸つき、乱れ映り鮮明に立つ。刃文は、丁子乱れに互の目・尖り刃交じり、処々腰の開くところと逆がかるところあり、足・葉よく入り、匂口締まりごころに小沸つき、物打ちより帽子にかけて沸強くつく。帽子は、乱れ込み、先尖りごころに返る。茎は、大磨上、先切り、鑢目筋違、目釘孔三、無銘。

典厩割は常に見る国宗に比して処々腰開きの乱れと尖り刃の交じる点がやや異風であるが、本作に相通ずる出来の有名作が重要美術品に存在し、所伝は十分に首肯されるものであり、地刃が健全に保存されていることも好ましい。
本刀の号の由来は、川中島合戦の折、上杉謙信が武田信玄の弟:典厩信繁の陣を撃破した際の謙信の佩刀であった事に因むもので、のち謙信から佐竹義重に贈られ、爾来、長く同家に伝えられた。また本当に附属する日の丸扇紋金具糸巻太刀拵は、金具の銘文から寛政元年に佐竹義敦の命により小埜寺道雄の指揮のもとに正阿弥重恒と古川貢暁が製作にあたったことが知られる。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺3寸(69.8cm)
反り 5分6厘(1.7cm)
元幅 9分6厘(2.9cm)
先幅 7分3厘(2.2cm)
鋒長さ 1寸2分9厘(3.9cm)
茎長さ 6寸8分(20.6cm)
茎反り 僅か(0.2cm)

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