夢切り国宗(ゆめきりくにむね)

  • 刀 無銘 備前三郎国宗 (号:夢切り)
  • 長さ 2尺3寸(69.7cm)

 

夢切り国宗は永禄7年(1564)、常陸国の佐竹義重に上杉謙信がに贈った備前三郎国宗の太刀で、ある時に大田城の櫓で義重が昼寝中をしていたところ、夢のなかで蛇に呑まれようとしたのを、この太刀で追い払った。夢から覚めてみると太刀が鞘から抜け出て、戸に立てかかっていたことより、「抜け戸夢切り」という異名で呼ばれるようになった。のち子の義宣が二尺三寸(約69.7cm)余に磨り上げた。この「夢切り国宗」と「典厩割り国宗」を同物とするのは明治に入ってからの推論である。

上杉謙信が永禄三年(1560)に山城国の京に上洛した時に、京よりさらに足を延ばして大和国の高野山に向かう途中、若江(東大阪市)城主:三好氏が、池田丹後守・多羅尾常陸介・野間左吉らに命令して、謙信を襲わせた。武勇の謙信は備前三郎国宗、三尺一寸(約93.93cm)の大刀を揮って、三好勢をら追い払うことに成功した。謙信はその晩年に至り、この国宗の刀を自身の「老之杖」にすることを考えていたが、自らの武勇を貴殿以外に受け継いでいってくれる者は義重をおいて他にないと思うので進呈する、という旨の書状と共に、常陸国(茨城県)の佐竹義重に贈った。義重は当時より「鬼義重」と謳われたほどの勇将で、しかも義重から遡って六代前になる義人は、上杉家から養子に来た人であった。そういった心情的なこと以上に、主な目的としては後北条家や武田家をその後方に位置する佐竹家に牽制させることこそが真の狙いであったはずの贈刀であった。贈られた義重は大いに喜び、それより国宗を刀を差料としていた。ある夏の日の夜、暑さに耐えることができずに、高いの風がよく通る城櫓の二階に寝ることにした。すると、夜中になってからちょうど櫓の下に位置する池より大蛇が現れ、義重を呑みこもうとで、枕元に置いてあった国宗を鞘から抜いて大蛇を切り払う、という夢をみた。夢から目覚めてふと枕元に目をやると、鞘より抜けて出ていた国宗は、戸に立てかけたかたちになっていた。その夢のなかでの不思議な出来事に由来して「抜け戸夢切り」、または単に「夢切り」という異名がついた。のちに、義重の嗣子:義宣は家督を継ぐと、義宣は国宗を義重に懇願して譲り受けたが、長過ぎるとして、刃長二尺三寸三厘(約69.8cm)の大磨上げの無銘にしまった。義重は磨上げられた刀の姿をを見ると、刀の魂が抜けてしまった、と慨嘆したという。
謙信からの手紙は、寛永十年(1633)九月二十一日、秋田城の火災によって焼失した。そして刀は大磨上の無銘となっていて、刃文は国宗らしくない部分も見受けられるので、明和四年(1767)、本阿弥親俊が秋田城下に出張鑑定した時、相模国の鎌倉一文字助真に極め直し、折紙は百七十枚をつけている。
以上のように、江戸時代における秋田藩士の古記録に、川中島合戦の時にこの国宗が、謙信が武田信玄の弟:典厩とよばれた信繁を斬った、いわゆる「典厩割り国宗」などいう記載は全くみることができないが、明治二十九年刊の「秋田沿革史大成」に、急にこの刀を典厩割国宗として紹介しているが、それは誤伝である。

「本阿弥親俊鑑定刀剣目録」
備前三郎国宗 長さ二尺三寸半(約69.7cm)すり上。
鎌倉助真に成、百7拾枚。両方帽子にえる。刃先のうづ沸玉有。横手より二寸斗りの間、表の方、別而沸あらし。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺3寸(69.7cm)

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