石川県金沢市に住むTといいます。城下町金沢は、加賀百万石のお膝元なので、本多家をはじめとして、各家老は五万石、二万石などという級の家が、ずらりとその屋敷をならべていました。したがって、その家来衆も五百石、三百石と、山大名もおよばぬ反映ぶりで、まだ江戸時代のお墨付きなどを保管している武士の出の家もあります。私が刀を好きだとしったある武家の家柄の人から、刀や小道具の売却方を依頼され、つるぎの屋さんにご相談させてもらった次第です。ほとんどが未鑑定品でありましたので、鑑定書を取得した方が良いものは東京で審査に代理で申請してくださりました。そして、鑑定書取得後には共催されている刀剣専門の業者交換会(オークション)にやはり代理出品で売却してくださり予想以上の高値で売却することができましたので私も持ち主の方に良い報告をすることができ安堵しました。また、お願いすることがあると思いますので、その節はよろしく頼みます。

石川県の旧国名は 加賀国と能登国といいます。
加賀国は、北陸道の一国で、現在の石川県の南半部、抗仁14年(823)以前は越前国に属していたので、「延喜式」には越前国として、横刀十口を貢進するよう定められていました。富樫家は泰家が源頼朝から加賀の守護に任じられて以来、連錦室町中期までその職にあったので、それ以前の刀工はすべて富樫氏の支配下にありました。光長の銘に、「加州富借住人藤嶋光長 建武元年五月一日」とあるのは、その証拠になります。
「藤嶋」とあるのは、越前藤島から来住したからで、同じころ同所の友重もさらに越中からも真景が移住してきている。これは富樫高家が足利尊氏に属して、新田義貞らと闘うため、大量の刀剣類を必要としたからです。富樫の本家:政親が長享2年(1488)、一向一揆によって打倒されるまで、真景系からは家次、友重系からは友重・景光・行光・清光らが出て、富樫氏に協力していました。応仁(1467)ごろの国次は備中青江の国次と銘する数工がいるので、それと関連づけ、かつ区別するために加賀青江と称されました。一向一揆の時代をへて、江戸期に入ると、前田利家が入封して、幕末まで百万石の大藩が続きました。その庇護によって、刀工には友重末流のほか、辻村兼若・陀羅尼勝国ら、金工には小池与四郎のほか、いわゆる加賀後藤と呼ばれる諸派が形成されました。
加賀後藤は、加賀前田家に抱えられた後藤派金工の総称で、江戸期には、後藤顕乗門人と称する後藤市右衛門系だけを、加賀後藤と呼んでいました。慶長(1596)ごろには、後藤治(次)右衛門もいたが、銀座を命じられ、金工からは除外されました。現在は顕乗門人の桑村系・勝木系、後藤琢乗門人の小市系、後藤光乗門人の水野好栄などを総称しています。桑村系には師家にも劣らぬほどの後藤風の優品があるが、他系は華麗な平象嵌、いわゆる加賀象嵌をもっぱら手がけています。
加賀象嵌は、加賀前田藩工たちによって作られた華麗、かつ精巧な平象嵌で、その祖は種田次郎作国永であるといいます。加賀では金工を白銀師、象嵌工を鐙師とよんでいました。その鐙師だった国永は、後藤琢乗から学んだ家彫に、家職の象嵌技術を利用して、華麗な小柄などの装剣具を作り始めました。世人はこれを「次郎作彫り」と呼んで、賞賛を送りました。国永の弟:五郎作吉重はさらに絵を金森宗佐に学び、新機軸を出したので、これまた「五郎作彫り」の名で珍重されました。こうして加賀象嵌が兄弟の手によって開発されると、金沢城下の象嵌町で、百五十石をもらっていた勝木家も辻山城家もそれに倣って、華麗な加賀象嵌を作り始めました。これらは元来、鐙の象嵌工だったから、作るところの象嵌は決して脱けないように、堅牢にできていました。象嵌を叩きこむ溝を底広に彫ってあったからです。堅牢なうえに、草花・虫類または風景などを、金銀・朧銀・素銅などの平象嵌をもちい、豪華かつ繊細に表現してある。いかにも百万石城下にふさわしい出来です。
能登国は北陸道七カ国の一つで、現在は石川県の北半部、南北朝期から天正(1573)年中まで、畠山氏が守護大名として統治しました。以後、前田家の領地となり明治維新に及びました。
能登後藤は、金工の一派で、初代の甚右衛門は後藤琢乗の門人で、初め能登、のち加州金沢に移住し、二代は甚右衛門光章と称しました。

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