宮崎県に在住するIといいます。私の生家にも鎧兜や刀などがあり、子供の頃両親に隠れて刀を出しては遊んでいたものです。また江戸時代の刀剣鑑定の書物がたくさんあり、青年期には興味を持ってそれらを読むようになっていました。郷土の名工国広の作品はかねがね欲しいと思ってはいましたが、なかなか縁がありませんでした。ある時、地元の某家にあった刀を、そこの老夫婦が全国一周旅行をしようとして売りに出し、たまたま私に縁があって入手することができました。
科学という言葉すらなかった数百年も前に粘りの強い性質を引き出し、さらに変化に富んだ美術工芸品に作り上げて行った個人の偉大さにただ驚くばかりです。刀工が作品を通じて永遠に生き続けていることにも心を打たれます。
まだ国広を手放すのは早いですが、私も年をとったものでそろそろ裾の方の刀から手放していかなければと思っております。今回は、短い方の短刀や脇指、鐔などの小道具を処分いたしましたが、またつるぎの屋さんにお願いしたいと思っておりますので、その際にはよろしくお願い致します。

宮崎県の旧国名は、日向国といいます。西街道の一国で、初めヒムカまたはヒウカとよび、九州の東南部の総称で、大宝2年(702)に薩摩国、和銅6年(713)に大隅国が独立したので、残部が日向国となりました。「延喜式」によれば、日向国からは毎年、太宰府に対して、甲二領・横刀六口・弓十五張・征箭二十五具・胡簶二十五具を納めていました。薩摩や大隅はこれらを全く納めていないから、日向ほどの勢力はなかったことになります。日向国はもともと現在の宮崎県のほか、鹿児島県の曽於郡松山・志布志・大崎などの三町をも、含めたものでしたが、これから明治16年、鹿児島県に割譲されました。
京の三条宗近が、現在の串間市羽ヶ瀬に駐槌中、彫ったという不動明王の象や、焼き入れに使った、という池があります。宗近の子の時代、つまり、寛仁(1017)ごろ、筑後から月西が移動してきました。後鳥羽上皇の御番鍛冶だった粟田口久国、または二代:久国が下向してきた、という伝説があります。しかし、以上の三工は幻の刀工で、実証を欠くが、応永(1394)ごろの久吉には、「日州真幸住粟田口久吉」、または「日州真幸住藤原久吉作」と切った銘があるから、実在刀第一号はこの久吉であす。真幸とは現在のえびの市真幸区のことで、鉄鉱の産地として知られた所であす。
貞治(1362)ごろ、濃州関から式部丞兼次が移住、牛島に鞴をすえた、というが、それは時代の上げ過ぎて、実際は大永(1521)か天文(1532)ごろでしょう。明応(1492)ごろ、同じく関から移住してきた正勝は、跡江(宮崎市)に定住、二代続いています。
月山正次には、明応(1492)から、永正(1504)にわたる年紀があり、その後裔は都城市に現住します。都城市を昔は庄内と呼びました。永禄(1558)ごろの月山寛安には、「日州庄内住」と切った作品があります。現在の串間市にいて、「日州福嶋住人」と切った光重は、室町初期の人か、「日州櫛間住」と切った正重は、永禄(1558)ごろといいます。
法華岳の薬師堂にいて、「日州薬師堂」と切った通吉・通英らは、永正(1504)ごろで、彫刻が巧みでした。同じく彫刻を好んだ綾(東諸県郡綾町)居住の実昌らの刀工郡は、天文(1532)ごろから作品を遺しています。
新刀期の初頭を飾る巨匠:堀川国広は、実にこの綾鍛冶の出身でした。中央の檜舞台に打って出て、相州正秀・水心子正秀とともに、「中興の三傑」と謳われた国広は、郷土の後輩であった和泉守国貞を一流に仕立て、大坂新刀の草分けとしました。さらに国貞二代目の真改は、大坂正宗の名で、出藍の誉をあげました。そのほか、弟の国安、弟子の国儔・正弘らも、郷土の後輩として、国広の期待を裏切らない技倆の持ち主になりました。
新々刀期には、京から丹波守吉道七代目が延岡へ、江戸から長運斎綱俊二代目が飫肥へ来て、ともに藩工になったほか、大坂から尾崎正隆、関東から細川忠正が下向、各地で作品を遺しています。本庄(東諸県郡本庄町)の谷山義純が、鹿児島城下に召されて、藩工になりました。

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