忠吉は肥前佐賀の鍋島家に仕えました。藩命により上洛し、埋忠明寿の門下で学んだのが慶長元年であるとされています。同年には業成って帰国しました。

 

この「脇差 銘 肥前国(國)忠吉 慶長六年八月吉日」の長さはおよそ39.7センチ(一尺三寸一分)、反りはおよそ0.4センチ(一分五厘)です。

平造りで寸延びの脇指。鍛は板目肌がつみ、地沸が付いています。刃文は小のたれで、匂口が締まり、小沸が付きます。帽子はわずかに乱れ込んで、先は丸いです。表面に刀樋の中に旗鉾の浮彫りがあり、裏には刀樋に添樋を搔き流しています。茎は生ぶ。先は栗尻、鑢目は勝手下がりで、目釘孔は二つあります。表側の棟寄りには五字銘が刻まれ、裏側には慶長六年の年紀があります。

 

現存する彼の作品の中で最も古い年紀は慶長五年であり、この脇指のように字体がややつぶれて見える銘字の作品は「秀岸銘」と呼ばれるのが一般的です。

秀岸は忠吉が尊敬する京の褝宗の僧で、その下書きによる銘字がこの一振りに見られるとされています。こうした書体の銘は、厳密には多少違いはありますが、大体慶長十四年まで続いているということが作刀によって実証が可能です。

秀岸銘の忠吉の作刀は現存するものが極めて少なく、この時代のものは後に武蔵大掾となってからの作刀とは多少なりとも違いがあります。地がねは後に糟糖肌と呼ばれるものとは違い、板目が主で変化があり、刃物もまた純然たる直刃。匂口が締まっていますが、丁子刃はなく、一般に志律風であるとされています。

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