この「短刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿 慶長拾二年三月吉日/所持埋忠彦五郎重代」は明寿の作中でも地刃の出来が優れ、殊に表の櫃の中に浮き彫りされた梵字と不動、裏の刀樋の中の竜の浮彫りは見事です。

不動明王は右の方に一寸腰をひねって、背丈が高く、肉が締まった美男スタイル。顔も威厳があって彫技の冴えを見せ、足の踏まえ方によるものであり、すわりがよいです。こうした所にも埋忠の彫刻技術はよく示されます。所持者の埋忠彦五郎については不明ですが、明寿の子息の一人である可能性も考えられます。

 

表切刀造、裏平造で、身幅が広く、長さはおよそ26センチ (八寸二分八厘) 、反りはおよそ0.2センチ (八厘)と詰まった姿で、いわゆる庖丁風です。明壽のもっとも得意としたものでしょうか、ほとんど同趣の物が数口現存しています。

片切刀造は、古くは、鎌倉の末期に始まり備前では長船景光、相州では貞宗、江州では高木貞宗や甘露俊長などにもこれがあります。古刀期においては、わずかな期間に流行し、たちまち廃れて、桃山時代になって再現が見られるのです。すなわち埋忠明壽、堀川国広、越前康継等を始めとして、それぞれの弟子や門弟の作に多く見受けられます。

これも江戸時代になるとほとんど影をひそめてしまうのは、やはり実用に難点があるからでしょう。明寿の切刃は、他の一門や諸工とは趣を異にして、茎の中程までで、切刃が自然に消滅し、下方は普通の平造のような仕立てとなっている点は見落としてはなりません。

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