埋忠明壽作で現存する打刀は、この「太刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿(花押)/慶長三年八月日他江不可渡之」一口のみです。『新刀辨疑』に所載があり、めずらしいものとして刀剣社会の話題になりました。

しかしこの太刀の存在は、昭和の初めまで全く分かりませんでした。本間博士がたまたま相馬子爵家の蔵刀を調査中、同家では雑刀として取り扱っていたものの中から発見されたもので、その功績は大きいです。

 

「太刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿(花押)/慶長三年八月日他江不可渡之」は、長さがおよそ64・7センチ(二尺一寸三分五厘)、反りはおよそ1.36センチ(四分五厘)です。鎬造り、庵棟、中峰が大きく延びごころとなり、反りは極めて浅いです。

一見、南北朝期の太刀を磨き上げたもののように感じられます。こうした太刀姿は、新刀初期に見る独特のものであり、すなわちこの頃になって、太刀が廃れて、武士は長い打刀と短い打刀と帯用するようになりました。戦闘方法も、徒歩が多くなったために、鎌倉時代や南北朝時代に作られた長大な太刀を磨き上げて帯用するようになりました。

この影響と実際に使用上の必要から、この時代には、前述のような太刀姿の物が鍛刀されたことも当然だと言えるでしょう。従って太刀銘ではありますが、制作者の意図は腰に差す打刀であったに違いありません。

茎の銘文中にある「他エ之ヲ渡スべカラズ」の添銘は、やはり、明寿が自分の近親者に与えるために鍛造されたものであることを物語っており、出来もそれに適うものです。

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