刀とは、物を切断する道具で、つまり刃物の総称となる。中国でも、刀(トウ)を到(トウ)で、斬伐して、その所に到るを以てなり、と注されている。古剣書には、刀の字を「カ田ナ」または「カタナ」を組み合わせた、秘伝書用の私製文字もある。
・片刃の刃物のことをいい、刀の語源そのものが、片刃または片薙ぎとも、片刃無とも考えられている。その形状については、「和名抄」に「四声字苑」を引いて、「似剣而一刃曰刀」といい、「小刀 賀太奈」と注している。古剣書においては、大同(806)のころ、神息が初めて宝剣を縦にニ分して、刀を作ったとか、利剣を二分したとかいう説が見えている。
宝剣とは切先が円味をおび、(型になったもの、利剣とは直線的で、<型のものとも、また、宝剣とは鎬の筋がたって一本の直線となっているもの、利剣とは鎬が幅のある平面になっているものをいう。この後説に従えば、利剣を二分したものは鎬造り、宝剣を二分したものは平造りの刀、ということになる。なお「詩経」にある衛風の詩に、「誰謂河広曽不容刀(誰か河広シト謂ウ、曽テ刀ヲ容レズ)」とある。この刀は、「小鉛成」と注せられているので、刀は舟の形から思いついて造ったもの、ともいうが、それは逆に小舟が刀の形に似ているから、小舟を刀に例えたものである。
・短い刀のことをいい、「古事記」や「日本書紀」では、小刀をカタナと訓ませてある。紐小刀を鰐の頸にかけとか、出石小刀を袍の下に匿したとかあるのは、短い刀だったことを窺わせる、つまり後世の脇差や短刀を、古くはカタナと呼んでいた。
・雑用に供する小さな刃物、つまり小ガタナの類をいう。「和名抄」では、賀太奈と訓ませてある刀子が、これである。出石小刀についても、「袍の中の刀子」とも書かれている。「延喜式」に、刀子は刃長五寸(約15.2cm)以上、輙く帯ぶるを得ず、とあるから、長さのおおよその見当がつく。
。料理につかう包丁をいい、包丁刀の略で、「宇津保物語」に、「まゐる物は、かたな・まないた」とあるほか、「四条流包丁書」や「大草流料理書」に、刀とあるのは包丁のことである。
・室町期以前には短い腰刀をいう。「源平盛衰記」に、平通盛が、「刀をぬき源三が頸を掻共」、「太平記」に、尊良親王が「御衣の袖にて、刀の柄をきりきりと押巻き」、「明徳記」に、山名小次朗が「太刀をば馬の上より投捨て、刀を抜き」とあるのは、いずれも腰刀または鞘巻き、つまり、後世の脇差のことである。
・織豊時代以後、大小の二刀を腰に指すようになると、大刀のほうをいう。拵えからいえば、古くは打刀または鐔刀と称えていたもので、長さは二尺(約60.6cm)以上、と限定された。腰に帯びるには帯の間に差す、つまり差し刀の形式になる。「武備志」の著者は、和寇の姿をみて書いたのであろうが、刀を佩刀と呼んでいる。しかし刀は佩くのでなくて、差すという形式になる。なお、「武備志」では、大刀に「闊中撻打奈」という和訓を添えてあるが、日本語の何に当たるか、不明である。
江戸期になると、本阿弥家では折紙に書く必要上、二尺(約60.6cm)以上、二尺六寸(約78.8cm)以下を、刀と呼ぶことにした。しかし、仙台藩には、二尺一寸(約63.6cm)以上、二尺七寸(約81.8cm)以下を刀、とする異説があった。なお、本阿弥家では、刃長は以上の範囲内にあっても、刀工の銘が差し裏にある場合は、これを小太刀という名称で呼んでいた。太刀の銘は茎の差し裏、つまり佩き表に切るのが通則だからである。さらに異説として、相州正宗が従来の身幅狭く、重ねの暑い剣形を改めて、身幅の広い、重ねの薄い剣形にしたので、本阿弥家では前者を太刀、後者を刀と呼んだ、という説がある。しかし、これは誤伝のようである。
・刀を差す武士をいい、「信州山中合戦」に、「刀をやめ身は山猿と成り」とあるのは、この例である。

打刀とは、刃を上にして腰の帯にさすようにした、鐔のある刀をいい、特に「打ち」と称したのは、太刀や、腰刀つまり短刀が甲冑のすき間から突くのを主眼としたのに対して、これは打ち切ることを主眼としたからである。切り合うとき、拳を保護するため、必ず鐔をつけた。それで鐔刀ともいう。古くは僧形のものに愛用されたとみえ、平清盛入道・阿闍梨慶秀・弁慶らの持っていたことが、軍記物に出ている。
なお、「伴大納言絵詞」「法然上人行状絵図」「拾遺古徳伝」には、打刀を腰にさした図が描かれているから、僧兵や従者などは外出時、腰にさしていたことになる。室町期に入ると、当初から打刀が流行した。それは応永(1394)ころの刀に、刀銘、つまり刀を腰にさした場合、銘が外側になるように切ったものが、激増していることからも明白である。位の高い貴人たちの多くも時代の流行によって打刀を用いるようになった。今川了俊は応永27年(1420)、96歳で没した。それの書いた「今川大双紙」によれば、輿に乗った場合、太刀と腰刀は左側、打刀は右側に立てておくことになっていた、という。輿に乗るような貴人でも、当時すでに打刀を併用していた証拠である。
貴人が乗馬で行くとき、太刀は従者に持たせるのが作法だった。従者は場上の主人の前を先行するようになっていた。従者の刀の持ちようには規定があった。侍が持つならば左手に、小者ならば右手に掲げる。入道した武士ならば、右肩に担ぐことになっていた。このように従者に持たせていては、イザというとき間に合わない場合がある。殊に応仁の乱後は、従者にも心を許せぬようになった。勢い自分で持つ必要に迫られたが、太刀は昔からの慣習として、従者に持たせることになっている。それを自分で持っては、害心があるものとして相手の不興を買う。打刀ならばそういう慣習が固定していない。その上、太刀より軽便であるため、打刀の愛用者が増えてきた。
その太刀から打刀への転換期については、永正(1504)説・天文(1532)説・天正(1573)説などがある。永正説の根拠は明らかでないが、そのころできた刀の大部分が、刀銘になっている事実からも言えることである。天文説は、塚原卜伝が「今の代は太刀は廃るといひながら 刀も同じ心なるべし」と詠んでいるのを根拠にしたものであるが、この歌の意味は、当時においては既に太刀は廃れてしまっていた、とも解釈される。
当時すでに槍が戦場の花形武器として登場していた。槍を縦横にふり回すには、太刀だと柄が邪魔になるが、刀だとそれがまずない。こうした実戦上の体験からも、打刀が推奨されるようになったようである。天正説は、そのころの道義心の退廃から、自衛のため自ら帯びざるを得なくなった、との推論によるものであるが、人心の退廃はすでにそれ以前からひどかった。したがって、それを理由にしても、転換期はもっと古い所に求むべきである。
「宋五大草紙」には、大永8年(1528)の奥書がある。それにはすでに、足利将軍が持った打刀がおさめられた拵えについての説明がある。そのころになると、すでにアシカガ将軍でさえも、太刀ではなく打刀を正式に用いていたようである。なお、将軍への献上物、あるいは武将間の贈物に打刀が用いられることを、故実家の眼からみて批判している。しかし、それが当時すでに武将間の風習として定着していたというから、太刀から打刀への転換期は、永正説が真相に近いと見るべきである。永禄(1558)ころになると、将軍が参内する時でさえ、小打刀を自ら携行した、というから、打刀は貴族間でも愛用されていたことになる。
武士においても、太刀と腰刀、つまり短刀との中間の長さの打物を必要とする場合があったし、法制上、腰に太刀を佩くことができない僧侶や、経済上、太刀を買えない庶民のため、手軽な長さ、つまり一尺(約30.3cm)から二尺(約60.6cm)までの打物が要望された。その要望に応じて作られたのが、初期の打刀である。したがって長さはいずれも短い。弁慶の打刀は一尺三寸(約39.4cm)、上総五郎兵衛が懐に隠していたのは一尺(約30.3cm)余とある。
打刀の長さを一尺二寸(約36.4cm)、身幅を一尺二寸(約3.6cm)、重ねを六分(約1.8cm)、中心の長さを二寸八分(約8.5cm)、と規定したものがある。これは一尺二寸は十二神将、一寸二分は十二因縁、六分は六天、二寸八分は二十八宿を意味する、としたもので、もちろん仏教からの付会に過ぎない。平安末期から鎌倉諸頭の作とされている。「伴大納言絵詞」を見ると、打刀をさした人物が描かれていて、刃長は一尺五寸(約45.5cm)ぐらいと推測される。
鎌倉末期の作である「法然上人行状絵図」には、二尺(約60.6cm)以上の打刀をさした図が描かれている。永禄8年(1565)、将軍:義輝が殺されたとき、その弟:鹿苑院周暠も斬られたが、その時の打刀は二尺五寸(約75.8cm)あった。このように打刀が二尺(約60.6cm)以上になると、結構太刀の役目を果たした。それに組み討ちして、首をかくという戦法が時代遅れになったため、短い腰刀、つまり首かき用の短刀が不要になってきた。それで短い打刀が腰刀にとって替わることになった。
永禄(1558)ころになると、武将でも腰刀の代わりに、小打刀を帯びるようになった。三好義長が三尺二寸(約97.0cm)の太刀に、一尺八寸(約54.5cm)の打刀をさし添えた、とあるのは、その一例である。こうして刃長の短い打刀は腰刀に、刃長の長い打刀は太刀に取って替わるようになり、打刀に大・小、つまり刀と脇差の別を生じることになった。打刀が太刀と異なる点は、腰の帯にさすことである。清盛入道や阿闍梨慶秀が打刀を、「前垂れにさ」した、とあるのは、前下がりに差した、という意味である。

腰刀は、腰にさした刃長の短い刀のことで、むかし太刀は従者に持たせ、短い刀だけを腰にさしていたので、腰刀とよんでいた。腰差し・腰の物・鞘巻き・左右巻き・小さ刀・首掻き刀・刺刀・脇刀・脇差し・馬手差し・鎧通し・解手刀などに同じとなる。出し目貫で柄を巻かず、鐔なし、鞘は漆塗りや唐木、鐺は一文字、笄や小ガタナをつけ、下げ緒は長い。ただし室町期になると、実践用に柄を巻くようになった。長さについて、法住寺殿の怪僧のは七寸(約21.2cm)ばかり、巴御前のは七寸五分(約22.1cm)、源斉頼のは九寸(約27.3cm)ばかりあったという。

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