脇差は、脇指・脇刺・腋挿・腋刀ともあらわし、内刀や中刀を、ワキザシと訓ませたものもある。中国においては、日本での脇差を中刀とも書き、歪計柴需(わきざし)と訓ませているが、急抜とも書く。ハ木サ之を組み合わせた宛て字もある。脇差の発生や起原については、さまざまなの諸説がある。
① 脇差しの刀の略
太刀のように腰に佩かずに、腰の帯に指す刀の略。これにも二説がある。
A,「太平記」に淵辺伊賀守は切先の折れた刀をすて、「脇差の刀を抜て」、護良親王を刺し殺した。その脇差の刀とは、鎧の下に隠し持っていた短刀、同書に、南都の宗徒の面々が、「脇差の太刀なんど用意」していた、とあるのは、法衣の下に隠し、脇に指していた小太刀、という意味だ、と解する説がある。これは脇差を隠剣、すなわち懐刀より変化したもの、と考えているからである。
B,明徳(1390)の乱のとき、将軍義満は、篠作の御帯刀に二ツ銘の御太刀を添えて佩き、「薬研徹と云御脇差をささせ玉」という。ただし、腰刀のことは見えていないから、ここにいう御脇差は腰刀、または鎧通しのことでなければならない。これら両者は、ともに太刀のほかに、脇腰にさすものだから、脇差はそれらの別名ということになる。
② 隠剣の変化したもの
懐刀や守り刀は一名、隠剣ともいうように、帯刀を憚る場合、不慮に備えて、上衣の下に隠し、帯にさして行くものだった。それを表に出して指すことは、長禄(1457)のころ、すでに行われていたとみえ、当時の故実家は、「当代はや人の振舞、か様に下劣になる」、と嘆いている。したがって武人たるものは、貴人や客の前で、脇差を指してはいけない、とされていた。
それで貴人の前に出ると、脇差を脱して、自分の右のほうにおき、刃を右に向けておく。同輩のまえでは、自分の左のほうにおき、刃を右に向けておく、とされていた。公家では初めから脱刀していた。しかし、武士には貴人の護衛の任もある。それで将軍義満は、そういう場合、次の間に腰の扇子をぬいでおき、脇差はさして出てもよいことにしたという。
隠剣は懐中にさすため、鞘尻が丸くなっている。下げ緒も取り落とさない用心に、短くして結び玉をつくり、帯の間に挟んでおく。後世の脇差の鞘尻や下げ緒がそうなっているのは、隠剣が変化したものだからという。
③ 守り刀の変化したもの
昔は守り刀を脇差ともいった。文明(1469)ごろから、守り刀の代わりに、鞘巻きを帯に指す風が、下級武士から始まった。それが時代の移るに従って、柄を巻き、鐔をつけ、刀身も長くなった。ただ変わらないのは、下緒の短いのと、鞘尻が丸形である点だけである。
④ 打ち刀の改称
応仁(1467)の乱で、多くの腰刀が破損、または焼失したが、当時一統に困窮していて、腰刀を新調できなかった。それで打ち刀を腰刀の代わりに、衣服の外に指すようになったともいう。それで、脇差は打ち刀の改称にすぎない、といわれる説もある。なお、打ち刀の脇に、もう一振り打ち刀を差しそえたものだから、脇差という説もある。
さて、脇差が腰刀に取って代わった理由として、戦後末期には、打ち刀は狭い室内などでは使えないが、脇差であるならば使用できる、という説もあった。さらに天正(1573)のころ、織田信長の殿中で、何か変事がおきたさい、近侍の者はみな短い腰刀をさしていたため、相手に斬られるという失敗があった。それで信長が一尺五寸(約45.4cm)以上の脇差を指させることにした。各大名がそれにならったので、脇差が日本国内の全土において武士たちによって用いられるようになったではないかともいう説もある。
刃長は長くなっても、上杉家などには、腰刀と同じく鐔のないものが伝来している。しかし、天正15年(1587)4月、豊前国田川郡の岩石城攻めに功のあった本多広孝に、豊臣秀吉は金鐔の脇差を与えた。すると、そのころはすでに鐔づきの脇差になっていたわけである。
脇差の刃長については、平安末期、短刀のことを俗に1尺3寸(約39.4cm)、と呼んでいた。すると、刃長は後世の脇差と同じである。江戸期になると、元和元年(1615)05月15日付で、長脇差は禁止されたが、刃長は記されていなかった。寛永16年(1639)7月朔日付で、1尺8寸(約54.5cm)以上は禁止となった。それで脇差の定寸を、1尺8寸というようになった。元禄(1688)・宝永(1704)ごろまでは、あまり長くなかったが、享保(1716)の初めごろから長くなり、いわゆる長脇差の出現となった。
そのため、刃長の長短によって、大中小の呼称が生まれた。刃長1尺(約30.3cm)以下を小脇差、1尺7寸9分5厘(約54.4cm)までを大脇差、とする説もあるが、本阿弥家では、9寸5分5厘(約30.1cm)までを小脇差、1尺3寸(約39.4cm)までを喰み出し、1尺7寸9分5厘(約57.4cm)までを大脇差と定めていた。
地方によって、また若干の相違があった。仙台藩では、1尺2寸(約36.4cm)以下を妻手刺し、1尺4寸(約42.4cm)以下を小脇差、1尺7寸(約51.5cm)以下を中脇差、1尺9寸(約57.5cm)以下を大脇差、2尺1寸(約63.6cm)以下を小サ刀、2尺7寸(約81.8cm)以下を刀、と呼んでいた。脇差を単に短刀とするのは当たらない。
武士には放召人といって、身を拘束しないでおいて斬る刑罰があった。武士はいつその斬り手を命ぜられるか、分からないので、長い脇差をさす傾向があったともいう。

脇差の掟として、太刀とは違った脇差の作風は、例えば、鎌倉物では、先幅を広くするが、重ねは薄く、強く反ること、膨らより上が細く、長く延びること、踏張り強く見えること、時代の古いものは、粟田口風であることなど。豊後の行平系では、大和物風の出来であること、重ねの厚く、内反りになること、切先は筍形になるが、踏張りは特に強くならないこと、刃文は直刃であること、彫物は古びていることなどが、脇差の掟とされている。

脇差拵えは、打ち刀と同じで、鐔をつけ、柄糸で巻くが、片手遣いであるから、柄の長さは一束三つ伏せを標準とする。切羽は一重、鎺は一重または二重にする。腰刀と同じく、尻鞘を丸く、下げ緒は短く、小柄をつける。

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