「明治150年―明治時代から平成時代の刀匠」展に寄せて

●刀剣界の150年
今年(平成30年・2018)は、明治元年(1868)から数えて150年の節目の年である。そこで「大刀剣市」恒例の特別展では、表題の展示を企画した。
150年という歳月は、身近に感じるようで永い年月でもある。遠く鎌倉時代、源頼朝が征夷大将軍になり鎌倉幕府を創設したのが1192年で、建武中興が1334年、その間は150年に満たない。
明治から今日までの150年間に、刀剣界にもさまざまな出来事があった。そこで、日本刀に関するその間の出来事を振り返ってみることにする。

●NHK大河ドラマ「西郷どん」の時代
安政以降、日本国中がまさに激動の時代であった。
慶応4年(1868)正月3日に始まった鳥羽・伏見の戦から上野戦争・会津戦争と続き、明治2年、箱館戦争(五稜郭の戦)を最後に内戦は終わった。その間、日本国中が戦禍に見舞われた。当時の主力兵器は大砲やゲベール銃・エミエール銃などであったが、白兵戦はやはり日本刀が主流であった。そのため、全国各地で刀剣の需要が沸騰した。安政以降、慶応までの裏年紀が入った日本刀が数多く残っていることが、それを物語っている。

●廃刀令
その後、世の中が平和に戻るとともに刀剣の需要は激減するが、激減の理由はほかにもある。
新政府は明治2年1月に農民や商人の帯刀を禁止し、さらに同4年8月には太政官布告により「脱刀令」が出され、華族・士族とも平時は帯刀してもしなくても勝手次第ということになり、刀剣の需要はますますなくなっていった。
決定的となったのは、明治9年3月の太政官布告、いわゆる「廃刀令」である。「自今、大礼服著用竝ニ軍刀及ビ警察官吏等制規アル服著用ノ節ヲ除クノ外帯刀被禁候条、此旨布告候事。但、違犯ノ者ハ其刀可取上事」
一般の帯刀を全面的に禁止し、かつ違反者はその刀を取り上げるという衝撃的なものであった。
実際、われわれが経眼し得る明治2・3・4年紀のある刀剣類は幕末期の10%程度に激減し、明治5年紀のものはさらに少なく、明治6年以降の年紀はほとんど見ることがない。あるとしても、それはお守り短刀であったり、神社・仏閣などの注文による特殊なものに限られる。
このような事情から、当時、多くの刀工たちは廃業を余儀なくされ、大工道具や下駄屋の刃物、農具、鋏作りなど全く異なる職種に転向していった。

●ウィーン万博と帝室技芸員
刀剣界がきわめて悲惨な状況にあって、明治6年、うれしい出来事があった。日本国が初めて公式参加したウィーン万国博覧会に、日本の伝統工芸品の代表として大小2組の日本刀が展示されたのである。固山宗次と運寿是一の作品が、「鉄の最高芸術品」として世界に向けて紹介された。
その後、日本美術・工芸家の保護奨励を目的として、明治23年から皇室による帝室技芸員制度が始まり、同39年には宮本包則と月山貞一が任命されている。
そのほか、明治期には宮内省御用刀工として堀井胤吉・会津11代兼定・逸見義隆・桜井正次がおり、羽山円真・森岡正吉らの作刀も見るが、さほど多くはない。
金工界の帝室技芸員では、装剣具も製作して評価の高い加納夏雄・海野勝珉・香川勝広がおり、そのほかに府川一則・海野美盛・大川貞幹・塚田秀鏡・豊川光長らが花瓶などの美術工芸品を製作していて、欧米では非常に人気が高い。

●どん底の作刀界
大正期から昭和初期にかけて作刀界はますます衰微の一途をたどり、その作品はきわめて少なく、今日ほとんど見ることができなくなっている。わずかに月山貞勝・堀井秀明・笠間繁継らがいるくらいである。
月山貞勝には貞一の晩年の代作代銘もあるが、昭和8年(1933)には平成天皇のお誕生を祝して短刀を数多く製作している。
堀井秀明は大正7年(1918)、室蘭の日本製鋼所に入り、研究に従事した。昭和8年に名を俊秀と改めている。軍艦三笠の砲鋼をもって製作した「皇国興廃在此一戦」の文字の入った短刀は現在、非常に人気がある。
笠間繁継は陸軍大学の恩賜の軍刀などを製作、昭和7年には栗原彦三郎の招聘によって日本刀鍛錬伝習所の師範となり活躍した。
大正12年9月1日に発生した関東大震災は、刀剣界にも悲劇をもたらした。首都の大火災で、数多くの名刀が焼失してしまったのである。宮入法廣刀匠によって再現された水戸徳川家伝来の「燭台切光忠」は、その一例である。

●軍刀ブーム
昭和に入ると、6年満州事変、12年日中戦争、16年太平洋戦争と、日本は軍国主義一色に染まっていく。そうした中で軍刀の需要は一気に高まっていった。
それに応えたのが、まず靖国刀の誕生である。昭和8年7月、荒木貞夫陸軍大臣は有事に際しての軍刀整備のため、日本刀鍛錬会を靖国神社境内に組織した。それから終戦までの12年間に8,100口が製作されている。代表刀工として宮口靖広・梶山靖徳・池田靖光が上げられ、いわゆる靖国刀匠は皆「靖」の字を銘に冠している。
同時期に栗原彦三郎昭秀は赤坂に日本刀鍛錬伝習所を開設、また神奈川県相武台に設けた日本刀学院からも数多くの軍刀を世に送り出している。昭秀門人は皆「昭」の字を冠しており、後に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された宮入昭平・天田昭次をはじめ、今野昭宗・石井昭房・秋元昭友等々多くの門人がいる。
このほか、全国に陸軍および海軍受命刀匠がおり、軍刀の需要に応じ、日夜鍛錬に励んだ。それでも供給が追いつかず、残念ながら洋鋼の半鍛錬刀や粗製品も多数製造された。

●昭和の刀狩り
昭和20年8月15日に終戦を迎えると、この直後から日本刀史上最悪の事態が始まった。いわゆる「昭和の刀狩り」である。
あらゆる刀剣類は機関銃などとともに「武器」と見なされ、警察を経由して全てを占領軍に引き渡せとの命令が下った。その結果、何十万本という日本刀が海中に捨てられ、あるいはガソリンをかけて焼却されてしまった。外地においても武装解除となり、軍刀類は全てが没収された。
さらには、占領軍の兵士たちのお土産として、日本刀が持ち去られたとも聞いている。廃棄され、あるいは持ち去られた刀剣類の中に、旧国宝や重要美術品が含まれていたという悲しい話も残っている。
日本刀の悲劇は歴史上、4つあったとされている。天正12年(1584)の秀吉の刀狩り、廃刀令、関東大震災、そして昭和の刀狩りである。明治初年には全国に推定500万口の日本刀があったとされているが、現在登録されている数は約230万である。この150年で半減してしまったことは、誠に残念である。

●作刀再開と人間国宝
昭和21年6月に銃砲等所持禁止令が公布になり、これに基づいて10月には初めて日本人審査員による刀剣審査が全国で行われた。
同25年の銃砲刀剣類等所持取締令は、旧禁止令による武器回収の目的がほぼ達成されたとみて制定に至ったものである。以後、美術品として価値のある刀剣類は登録審査を経て所持できることとなり、現在に至っている。
なお、同28年の武器等製造法では美術刀剣は禁止対象に規定されておらず、同法に対応して文化財保護委員会は美術刀剣類製作承認規程を定め、銃砲刀剣類等所持取締令も一部改正された。これにより、一定の条件の下で作刀が再開されるところとなったのである。
財団法人日本美術刀剣保存協会(23年2月設立)では29年12月から作刀技術発表会を開催し、その伝統は今日まで脈々と続いている。
重要無形文化財保持者の認定制度は翌年2月に始まるが、その第1回目に日本刀が指定され、高橋貞次刀匠が保持者に認定された。その後、宮入昭平・月山貞一・隅谷正峯・天田昭次・大隅俊平の5名の刀匠が認定されている。
なお、続いて指定された刀剣研磨では、本阿彌日洲・小野光敬・藤代松雄・永山光幹・本阿彌光洲の5師が認定されている。
平成30年現在、刀剣界の人間国宝は本阿彌光洲師1人であり、刀匠はいない。誠に残念なことである。
再び人間国宝刀匠が誕生する日が待たれるが、そのためには現役刀匠の皆さんに頑張っていただくことはもちろん、刀剣関係諸団体・愛刀家・刀職者など、一丸となった応援が不可欠である。そのような努力が実を結ぶことを期待したい。

(刀剣界新聞-第44号 冥賀吉也)

明治元年における有名刀工の年齢一覧

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