逸見竹貫斎義隆(へんみちっかんさいよしたか)

  • 位列:新々刀上作
  • 国:備前国
  • 時代:明治頃

 

逸見竹貫斎義隆は、弘化3年(1846)年、岡山城下(現:岡山市表町二丁目)で刀剣商の次男として生まれた。甲斐源氏の末裔と称し、幼名は「大吉」といい、「東洋」と号す。文久2年(1862)年、摂津の刀工:尾崎助隆の孫:天竜士正隆(大坂・京にて作刀)門に入る。師の一字「隆」の字をもらう、「義隆」と名乗る。文久3(1863)年秋、岡山に帰り、城下で鍛刀をはじめるも、やがて廃刀令となる。作品は明治2年から4年の間に集中している。維新後、竹木を細工し、彫金、書画などをよくす。義隆を知る古老はその奇行を語り、また人間義隆の賞賛を惜しまない。現:岡山市駅前町天満屋の地に住していたという。大正9年12月24日、79歳で岡山にて没す。
短刀は、鵜の首造り、菖蒲造りなどを好み、得意とした彫物を添える。彫物は真の倶利伽羅竜・珠追い竜・昇り竜・下り竜・龍虎・梅竜・枝梅などがあって、それらを極めて緻密にあらわす。また、大坂新刀の一竿子忠綱の彫物にも長じている。
「備前岡山住逸見竹貫斎義隆彫同作」「備前岡山住竹貫斎義隆」「備州岡山住竹貫斎逸見源義隆」「竹貫義隆」などと銘す。

短刀 銘 東備産竹貫斎義隆(刻印) 明治三年正月吉日 切物同作 (附)青貝塗鞘合口拵 備前長船博物館蔵
長さ:7寸3分弱(22.0cm)、反り:内反り、元幅:7分9厘(2.4cm)、茎長:3寸3分3厘(10.1cm)
形状は、表:切刃造り、裏:鎬造り、内反り。鍛えは小杢目交りよくつみ、地沸つく。刃文は小沸出来の中直刃を焼き、わずかに湾れごころとなり、匂口締まりごころに小沸つく。帽子は直ぐ先小丸。彫物は表に珠追い龍、裏に梅樹。茎は生ぶ、鑢目筋違に化粧鑢、先刃上がり栗尻。表の茎先に「鎮国」の印を刻す。
24歳の作で、切刃造りと鎬造りであらわし、地肌はよくつみ、小沸出来の直刃や小丸の帽子を巧みに焼き、表裏の彫物も見事であり、全体のバランスがよい。廃刀令後は転身し、竹彫、木彫、漆彫など、自身が作った鏨で才能を発揮した。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)