肥前忠広(ひぜんただひろ)

  • 位列:新刀上々作
  • 業物:大業物
  • 国:肥前国 (佐賀県・長崎県)
  • 時代:江戸時代前期 慶安頃 1648-1651年頃

 

 
坂本竜馬が脱藩するとき、親友の河原塚茂太郎に贈った肥前忠広の作は2尺3寸(約69.7cm)あった。この刀はその後、武市半平太を経て、人斬り以蔵こと岡田以蔵の手に渡った。以蔵が本間精一郎を斬ったとき、物打ちから折れた。その断片を平井収二郎は短刀に改作していたが、平井が藩命によって処刑されるとき、同じ獄中の井原応輔に密かに残していった。

坂本龍馬が文久2年(1862)に土佐藩を脱藩した際の詳細と、所持していた「肥前忠広」の刀については
「坂本龍馬と刀剣」 小美濃清明:著(1995)に詳しい。以下は同著よりの引用となる。

坂本龍馬は文久2年3月24日(1862・4・22)、沢村惣之丞と共に土佐を脱藩する。龍馬28歳である。その脱藩の時の刀に関する通説は次のようなものである。

坂本権平は龍馬の脱藩を危惧し、万一に備えて末弟の差料を取り上げ、親類にもそれとなく知らせておいた。
文久2年3月23日の夕方、親類の豪商、才谷屋に立ち寄り、龍馬は刀を貸してくれと頼んだ。
才谷屋には質に取った刀が倉にいくらでもあったが、その時、才谷屋に男が不在で、女子供だけであったために「女はいっさい倉へは手をつけられん」と家の掟を楯にして断った。
龍馬は丸腰であるため、どうしても刀が必要であった。刀が無ければ脱藩を決行できない。
この時、龍馬の次姉栄は、徒士柴田作右衛門に嫁していたが理由あって坂本家に帰っていた。
この栄女が龍馬の心中を察し、夫からもらった刀を与えた。
この刀は「吉行」であるという説、「肥前忠広」という説がある。
栄女は龍馬が脱藩したあと、その責任をとって自害した。

これが、龍馬脱藩の時の刀にまつわる通説である。
しかし、昭和63年3月11日、「高知新聞」社会面に次の記事が掲載された。
『坂本龍馬の姉で、龍馬脱藩の折、刀を渡し、その責任をとって自害したと伝えられている栄のものらしい墓が十日、坂本家の墓地がある高知市山手町の丹中山で見つかった。しかし、没年が龍馬脱藩より十数年もはやい弘化年中となっており、これが栄の墓とすれば、今までの通説が覆されることになり、議論を呼びそうだ。

栄は坂本八平の二女で、乙女や龍馬の姉。築屋敷の柴田作右衛門に嫁いでいる。
墓は坂本家の墓地から南東30メートルの、ふもとで発見された。墓石の横に「柴田作衛門妻、坂本八平女」とはっきり刻まれている。没年は「弘化ー九月十三日」となっている。ただ没年と墓石正面が、削り取られてのか、判読出来なかった。台座から高さ61センチ、幅24センチ、厚さ20センチ。隣には柴田家の家紋入りで「柴田宇左衛門勝成墓」があった。
通説では、栄は龍馬の脱藩(文久2年:1862)を助け、銘刀を渡したため、責任を一身に負ってその晩、自害したとされている。しかし、墓の没年は弘化年間(1844~1847)。龍馬脱藩より十数年早い。
栄の墓はこれまで不明だったが、昭和43年には坂本家の縁者が同家の墓地を改修。その際、地下2.5メートルから髪の毛と遺骨が発見され、栄のものではないかと推測。新たに栄の墓をたてている。
今回、見つかったのが本物の栄の墓なのか。さらに、墓石正面などがなぜ削られたのか、栄の墓であることを隠すつもりなら、どうして「柴田作衛門妻 坂本八平女」の文字を残したのかーなど疑問が生じる。この墓が確かに栄の墓なら通説は覆る。史家には大きな反響を呼びそう。』
墓石正面は自然剥離だそうである。人為的に削られたものではないという。
高知在住の歴史写真家:前田秀徳氏によると、
正面 貞○院栄妙墓
右側 弘化乙巳二年九月十三日
左側 柴田作右衛門妻 坂本八平女
と書かれていて、その後自然剥離したとのことである。
栄が弘化年間に死去していたとすると、栄は龍馬脱藩と全く関係がないことになる。
この問題を視点から見る貴重な資料がある。「安田たまき証言」である。
「青年坂本龍馬の偉業」藤本尚則編著(敬愛会)の中に「その英姿を物語る実話」という章があり、安田たまき刀自談が掲載されている。
その全文を次に紹介する。
『安田たまき刀自談(銅像除幕式当日、八十五歳でなお矍鑠たる、安田たまき刀自「浜田真潮翁の令姉」は、高知市潮河天神橋南詰の家で、老の眼に悦びの色をたたえて「きょうは竜馬さんが銅像になって土佐へお帰りになるぢやそうで・・・」と感慨をこめて次の通り昔語りをした。)
「竜馬さんのお父さんと、わたしの父と、親しい友人でしたので、従ってわたしの実兄英馬(後に東と改名)と竜馬さんとは、ごく親しい交りをしていました。
当時竜馬さんの邸は本町一丁目の今の金子さんの所で、水道町まで突き抜けて広い屋敷でした。竜馬さんは、赤石のわたしの家へも時々遊びに来て、わたし達もよく本庁まで出かけたもので、兄とは、築屋敷の日根野道場へも一緒に稽古に行って居りましたし、「オンシが、オラが」の交際でした。竜馬さんは、六尺豊かの大男で、優男のように世上には伝えられていますが、背丈は中位で、色も黒く、決してトント(土佐で美少年の方言)の方ではありませんでした。
髪は当時の若い侍の間に流行していた結い方とは違って、たしか総髪で、それが烈しい撃剣修行のため、縮れ上っていました。刀はいつも短いのを、落し差しにしていまして、一寸見には、差しているやら、いないやら判らぬ位で、肩も撫で肩で、左肩が少し上っていました。
当時の若侍の気風とは、何処か違う所があって、エラがらず、威張らず、温和しい人で、それでいて見識の高い人でした。
姉の乙女さんは、竜馬さんとは反対に、身体も大きく、肩も張って、ほんとうの女丈夫で、三十を過ぎてから、男を持っていては自由に身が振れんと言って嫁入り先から帰って来た程の変わった人で、絶えず懐鉄砲(ピストル)を懐中にし、薙刀も盛んに稽古をして、わたし達にもやって見ぬかとすすめられました。竜馬さんとはよく坐り相撲をやったものでした。
こうした女丈夫を姉に持った関係から、竜馬さんも姉さんに激励される所が多かったろうと思います。昨夜(26日)が丁度吉田元吉さんが帯屋町で殺された日に当たりますから、それから45日して竜馬さんは脱藩したのぢやないかと思います。
高知を脱藩してから2日経って後に、兄の権平さんが私の方へ来て、兄に、
「英馬、オンシの家へ刀を持って来ちょりやせんかネヤ」
と権平さんが大切にしておった刀の詮議に来られましたが、兄が、
「来ちゃアおらん」
と、言うと、
「それぢゃア、どうも竜馬がおととい家を出たきり帰って来んが、脱藩したらしい。人を雇うて詮議すると、須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた竜馬の姿を見た人があるそうぢゃが、それから先のことは判らんキニのう」
と権平さんは語っていました。その時私は17歳でした。
竜馬さんが京都で殺されてから思い出したことですが、或日のこと、道場から帰ったわたしの兄が、母に向って、
「きょう始めて見たが、竜馬の棟の腕に五寸廻りもある大きな黒子(あざ)がある」
と語ったが、母にこれを聞くと、急に眉をひそめて、
「可哀相に、竜馬さんも、それでは剣難の相がある・・・」
と、言って、その後母は非常にその事を心配していましたが、果して竜馬さんは人手に斃れました。今日銅像の除幕式があるそうで、わたしは63年目に竜馬さんが土佐へ帰って来たような気持がします。銅像の写真を見ましたが、顔の工合と云い、眉や、刀の差し工合といい、本人そっくりです。云々』
この安田たまき刀自の談話は、今までの龍馬研究で全く取り上げられていない。藤本尚則氏の著作「青年坂本龍馬の偉業」そのものが無視され続けた。それには、それなりの理由があるのだが、それは後に述べるとして、筆者はこの安田証言に注目した。
特に、「須崎で、油紙に刀らしい物を包んで背中に負うた竜馬の姿を見た人があるそうぢゃが」という権平の言葉が気になった。
龍馬は刀を油紙に包んで背負っている。なぜ、刀を帯に差していないのだろう。妙に気になる箇所であった。
しばらくして、雨が降っていたのではと気づいた。その瞬間、この安田証言は本物だと直感した。
権平が大切にしておった刀を雨によって濡らさぬよう油紙に包んだ龍馬。ここに愛刀家:龍馬の真の姿があると思ったのである。

龍馬が高知出立の日の天候については、「坂本龍馬・脱藩の道を探る」(新人物往来社)で、村上恒夫氏が高知から直感で50キロほど離れた、東予での記録を引用されている。
「小松藩会所日記」の文久2年3月24日に「陰・宿雨」とあり、土佐方面も雨が降ったのではと推測されている。
しかし、高知県出身の方にお聞きしたところ、四国山脈を間にして高知と伊予では天候が全く違うことがあり、この推定は成り立たないとのことであった。
龍馬が刀を油紙に包んでいるという証言から、筆者は雨が降っていたと確信していたので、文久2年3月24日の土佐の天候が記録されている文献を探し続けた。
ある日、高知で調査を行っていた折、路上で偶然に出合った友人にその記録の所在を教えていただいた。
それは「真覚寺日記」であった。
高知から南西へ10キロほど離れた宇佐という村の真覚寺住職、井上静照の日記である。
安政元年から明治元年に至る足かけ15年にわたる記録である。「地震日記」九巻、「晴雨日記」五巻からなる全十四巻の日記であり、その名が示すとおり、地震記録としての記述が続いているが、それに加えて社会一般の情報をも記録している。
宇佐ならば高知から10キロである。宇佐の天候と高知の天候は、ほとんど同じはずである。龍馬が高知を出立する日の天候が判った。

文久二年三月廿四日
陰天八ツ頃蓮師の祥月の勤行する七ツ頃より雨ふり出ス
夜中大雨浪高し

同廿五日
雨日入頃雨やむ夜風少々吹く

同廿六日
晴極楽寺へ行波川にて半切紙を調るの用事を頼置福恵全書ヲ見る七ツ半時ゆる大小ノ夜寒し

と龍馬高知出立の日の天候が記録されていた。
脱藩の当日、24日は陰天(曇)であり七ツ(午後4時~5時)頃から雨が降り始め、次第に雨は強くなり、夜中は大雨で波も高く、翌日、25日の日没まで雨は降り続いていた。26日は晴である。
龍馬が脱藩を決意して高知を出立する時、すでに雨は降り始めていた。それ故、龍馬は刀を濡らさないよう油紙に包んで背負ったのである。
龍馬が高知を出立したのは七ツ(午後4時~5時)以降であったと判る。

龍馬が高知を出立した時刻をもう少し正確に調べる方法がある。

高知新聞に毎日「きょうの県内」という天気予報が掲載される。その下に「こよみ」という枠があり、日の出、日の入りの時刻が知らされている。
文久2年3月24日、25日を「和洋暦換算事典」(釣洋一著、新人物往来社)で洋暦に直し、その日の「日の出」「日の入」を調べた。
文久2年3月24日(1862/4/22)(火曜日)
日の出 5時27分
日の入り 18時42分
文久2年3月25日(1862/4/23)(水曜日)
日の出 5時26分
日の入り 18時43分
旧暦での時刻は昼間と夜間で一刻の長さが異なる。
龍馬が高知を出立した日、昼は14時間27分、夜は9時間33分である。
雨は七ツ頃から降りだしたと記録されている。16時53分30秒から18時5分45秒が七ツである。
だいたい午後5時から6時が七ツであったと判る。
雨は洋暦の4月22日・午後5時から6時の間に降り始め、翌日、4月23日の日没頃(午後6時43分頃)まで降っていたのである。
雨は26時間近く降り続く、どしゃぶりであった。夜中は風も強く、海は波も高かった。悪天候の中、龍馬は高知を出立したのである。
雨天の場合、通常、柄には柄袋を着ける。しかし、鞘には何も着けないので濡れてしまう。(鞘袋というものを着ける場合もある。)
この日のように、どしゃぶりの場合、油紙に包んでしまうのが最もよい方法である。
ただし、刀を抜くことがないと想定している場合である。
雨が降り始めたあと、刀を油紙に包んで龍馬は出立したはずであるから、正確には午後5時から6時以降に高知を出たと判る。
龍馬が油紙に刀らしいものを包んで背負っている姿を、目撃されたのは須崎である。高知から西へ30キロほど離れた港町である。
高知、須崎間はどのような道筋を歩いたのだろうか。その道順によって所要時間は大きく異なる。
高知、須崎間は船で行くという説もある。浦戸湾の少し西から船で行くというのだが「真覚寺日記」に波高し、と書かれているので、船は無理と思われる。
ここはごく普通に、龍馬がいつも須崎へと歩いていた道、慣れた道を行くのが妥当であろう。歩き慣れた道ならば、夜間でも安心して歩ける。大雨の中、なるべく平坦な道を行くのが得策である。
高知から須崎へ歩いても、まだ脱藩ではない。吉田東洋を斬って逃げた安岡嘉助や那須信吾と龍馬は違うのである。

龍馬の姿は翌日、須崎で目撃されている。人の起きている時間帯に歩いているのである。龍馬と確認できる程、雨が降っていても明るくなった時刻だったと思われる。
龍馬は須崎で朝食をとり、しばらく休憩のあと、檮原へ向かったのかも知れない。

安田証言は信憑性の高いものと判断、まず初出誌を調べることにした。
安田証言は昭和3年5月27日、桂浜・坂本龍馬銅像除幕式当日に収録されている。「青年坂本龍馬の偉業」の刊行は昭和32年である。収録されてから本の刊行まで、30年の歳月が流れている。本にはすでに発表されている。安田証言が再録されたものと思い、初出誌の発見に調査をしぼった。
しかし、当時の新聞、雑誌にこの安田証言は載っていなかった。国会図書館、高知県立図書館、高知市民図書館、高知新聞社などを調査したがすべて空振りであった。
結論から述べると、藤本氏は昭和3年に安田たまき刀自にインタビューして、その取材ノートを文章にすることなく、昭和32年、本の刊行までそのままにしていたと思われる。
30年という歳月が経った後に、取材ノートから文書を起こしたので、誤りが生じている。これらのことから初出誌はないと筆者は考えている。

次に安田たまき刀自の実在を確認するために、昭和3年頃の潮江天神橋南詰付近が記されている地図を探した。「青年坂本龍馬の偉業」では「潮河天神橋南詰」と書かれているが「潮江天神橋南詰」が正しく、これは単純な誤植と思われる。
この地図の調査からいくつもの幸運に恵まれることになった。
親しくしていただいている高知新聞:広告局勤務で郷土史家の谷是氏が、昭和3年6月現在の「潮江町・上町塩屋崎方面・現住者名図」を所蔵されていることが判った。そして、谷氏は潮江:天神橋付近に長くお住まいであった。
谷氏所蔵の地図を見ると、天神橋南詰、橋のたもとから二軒目に安田という家が実在していた。
そして、谷氏の御自宅と安田家跡はわずか徒歩で2分しか離れていないことが、現地調査で判った。谷氏のお家柄は江戸時代から続いた漢方医で、潮江の村長を務めたご先祖もおられた。
むろん、昭和3年の時点で天神橋付近に居住されていた。
さらに、幸運なことに谷氏のご母堂:谷豊さん(89歳)がご健在であった。
谷氏は注意深く、坂本龍馬の名を出さずに御母堂へ質問された。
「天神橋南詰の安田さんのおばあさんを知っていますか。」
豊さんは、
「安田さんのおばあさんは知っている。あのおばあさんは坂本龍馬のお友達だった。」
と答えられた。
昭和14年生まれの谷是氏も、初めて聞く母親の話だったそうである。
過日、谷氏の御自宅へ伺い御母堂にインタビューをさせていただいた。その際、豊さんのお話はすべてテープに収録させていただいた。
このことにより藤本尚則氏が書かれている「安田たまき刀自談」は実際にインタビューした記録であり、龍馬を知る貴重な証言と考えられるのである。
安田刀自の記憶でひとつ間違っているのは、吉田東洋が殺された後龍馬が脱藩したと思い込んでいることである。
安田刀自の記憶でひとつ間違っているのは、吉田東洋が殺された後龍馬が脱藩したと思い込んでいることである。
龍馬の脱藩は文久2年3月24日であり、吉田東洋暗殺は同年4月8日である。
老人の回想にはにはよくこのような日時の混乱がある。安田刀自にインタビューした藤本氏は訂正も加えず、安田刀自の語ったままを記録したと思われる。このことにより、この証言は一層信憑性が増すと考えられる。
この安田刀自の証言で重要な箇所は、龍馬が脱藩してから2日後、坂本権平が「大切にしておった刀の詮議」に来たというところである。3月26日のことである。

土佐藩上士、福岡家の「御用日記」に次の記述があるという。
文久二年
三月二十五日
御預郷士坂本権平弟龍馬儀昨夜以来
行方不知、諸所相尋候得共不明之由
届出候事。
三月二十七日
御預郷士坂本権平所蔵之刀紛失之旨
届出候事。
坂本家は御預郷士であり、支配方は福岡家であったので25日に「龍馬行方不明の届」、27日に「刀紛失の届」が上士:福岡宮内に提出されている。
「安田たまき刀自の証言」と福岡家「御用日記」の記述とを統合してみると、25日龍馬脱藩が判明し坂本家ではさわぎとなったが、刀紛失には気が付いていなかったようである。
26日になってやっと、権平が「大切にしておった刀」が紛失している事に気付いてその詮議のため、安田刀自の実家「濱田家」へ権平が出かけているのである。
そして、翌日、27日、刀紛失届が福岡家に提出されたと解釈できる。
もし、龍馬脱藩が判明した時点で刀も紛失していると判れば「龍馬行方不明の届」と「刀紛失の届」は同日に提出されたはずである。
権平が「大切にしておった刀」なので、まさかその刀が紛失しているとは思っていなかったのではないだろうか。
この紛失した刀は坂本家に伝わった大事な刀であったので、奥深く収蔵されていて、その有無をすぐに確認する事がなされなかったとも考えられる。
龍馬脱藩を警戒していた状況の中で、龍馬が容易に大切に収蔵されていた刀を無断借用できたのは何故なのだろうか。
それは坂本家の中に協力者がいたと考えて良いのではないだろうか。
そうした想像を裏付ける記述がある。
「維新土佐勤王史」(瑞山会編纂)の「其十七」に次のように記されている。
『實兄の権平の祖産を守りて事を好まず、龍馬近日の擧動に戒心を抱くより、路費を請ふとても許さるべきにあらず、辛くも親戚の廣光某に就きて、十餘金を借り得たれば、實兄を欺きて近村に旅行すと告げ、將さに明暁を以て發せんとす、實兄秘蔵の肥前忠廣の一刀を取り出し、御身に贐けせんとて與へければ、龍馬は之を推し戴き、首途よしと勇み立ち、此の月二十四日の夜、澤村と共に高知城下を發す、河野萬壽彌は之を朝倉村まで見送りて別れたり』
姉乙女が贐に刀を与えたと書かれている。乙女が秘蔵されている場所を知っていたのか、あるいは収蔵庫の鍵を持っていたかで、刀を龍馬に与えたとも考えられる。
刀は「肥前忠広」と書かれているので、武蔵大掾藤原忠広(初代:肥前国忠吉の晩年銘)か近江大掾忠広(2代)ではないだろうか。後代(5代、6代、7代など)ではないように思う。
初代、あるいは二代忠広であれば名刀であり、権平が「大切にしておった刀」という安田刀自の証言とも合致するのである。
初代であれば刀工の位列(ランキング)で「最上作」であり、二代であれば「上々作」である。権平が大事にするはずの名刀である。
坂本家は高知の豪商:才谷屋が郷士株を買い六代目の長男が郷士となっている。坂本家を創る時、豪商:才谷屋から坂本家へ名刀が多数、移されていたと考えれば郷士が「肥前忠広」という名刀を持っていても、決して、不釣り合いではないのである。
また、こうした名刀を龍馬が持ち出す理由は十分に考えられる。それは脱藩後の龍馬の旅費という現実的な問題を考えれば頷けるのである。
3月24日 高知出立
3月25日 梼原・那須宿泊
4月1日 下関・白石正一郎を訪問という。
6月11日 大坂へ到着、この後京都へ。
7月23日 京都で樋口真吉と会い、一両を与えられる。
閏8月23日 江戸・桶町千葉道場へ入る。
これが通説となっている脱藩後の龍馬の足跡である。約6カ月、旅を続けている。
この旅費は一体どこから出ているのであろうか。脱藩前に親類の弘光左門から十余両を借りているというが、それだけで6カ月の旅はできないと思われる。
龍馬は下関から九州へ渡り、薩摩へ入国しようとしたが失敗したという。
龍馬は何処で何を見ていたのであろうか。高知出立から77日目に、大坂へ到着している。
「維新土佐勤王史」の「其四十七」に次の記述がある。
『六月十一日大坂に達しければ、取りあへず京都より澤村宗之丞を呼び迎へて、上国の形勢を聞き、又書面を以て、巳の来りし事を住吉陣営在役中の望月清平に報ず、清平は為めに驚き且つ危み、先ず田中作吾を其の旅宿に遣はして、彼の吉村等の押送せられし次第を告げ、御身にも吉田刺客の嫌疑がかかり居れば、何時藩邸より捕吏を向けるも知れず、急ぎ之を避けよとの警告により、坂本は即時に入京す、折しも江戸より帰途滞在中なる大石彌太郎の旅寓を叩く、大石は坂本の刀の柄に布片を捲けるを見て怪み問へば、坂本は打ち笑ひて、縁頭を売りて旅費にしたりと答へぬ』
龍馬は「縁頭」を売って旅を続けていたのである。
「縁頭」とは刀剣の柄に付いている金具であり、「縁」と「頭」という2つの部品から成り立っている。
それらは柄の両端に取り付けられて、柄を堅固に保つ部品である。縁頭は一対として作られるものであり、同じデザインが彫刻されている。
材質は銀、銅、真鍮、鉄などの金属が使用されており、赤銅(銅と金の合金)、四分一(銅と銀の合金)などという特殊合金も多く使われている。
刀を作るのは刀工(刀鍛冶)であり、縁頭などを作る職人は金工といった。
江戸期になり平和な時代になると、刀剣の装飾は一層華美となり、美しい刀装具(縁頭、鐔、目貫、小柄、笄など)が作られている。
刀装具には、それを作った作者(金工)の銘が刻まれて、一流の作者による作品は、かなり高価な値段がついたのである。
龍馬は刀剣や刀装具の趣味を若い頃から持っており、そうした品物の値段にも精通していたと思われる。
兄:権平の「大切にしておった刀」を持ち出した理由はここにあると思われる。
名刀がであれば「外装」が安価なものでなく、1つ1つがある程度の金額になる刀装具が付いているはずなのである。
龍馬はそうした事を承知の上で兄の「大切にしておった刀」を乙女に頼んで無断借用したと思われる。
愛刀家として、「縁頭」「鐔」「目貫」などの値段を龍馬は知っていたはずであり、脱藩のあと、金に困った時それらを売却するつもりが最初からあっとと考えらえる。

龍馬が姉:乙女から与えられた刀剣が「肥前忠広」であれば、それはかなり高価な刀剣である。
高瀬羽皐著の「刀剣談」(日報社:明治43年刊)の中に水野痴雲(外国奉行水野筑後守)の「幕末の相場」という話が載っている。
『文政の頃は正宗の刀およそ五,六十両以上にて盛光の類二十金以上であった。新刀の国広、虎徹、繁慶、五字忠吉の類は十五両より二十両まで其以下にては、五,六両、上作にても十両に至らず二代忠広など6,7両を限とせしが、今は(文久頃)正宗、貞宗の類百金以上、二百金に至り、虎徹、繁慶、忠吉の類は五十金前後となり、出来宜敷品は七,八十金にも至り忠広も三,四十両に至った殊更彦根候櫻田の事ありし頃よりは一際引上り、其後追々講武所も盛んになり、又外國御用出役とて外國公使の旅館へ詰め、外人遊歩の節、附添ふべき為め御目見以上以下の人々に命ぜられてより、實用専らの新刀盛に行はるる様になり、文政の頃康継などは三両前後、脇差は一両前後の品敷夥数なりしに、是も刀は二十両以上に至り、総て三四両より五六両の品三倍になり・・・』
文久の頃、忠吉は五十両、出来のよいものは、七、八十両、忠広は三、四十両だったようである。
「維新土佐勤王史」の「肥前忠広」という記述から、初代忠吉の晩年銘:武蔵大掾藤原忠広か、あるいは二代の近江大掾藤原忠広かは判別できない。初代とすれば五十両前後であり、二代忠広とすれば三、四十両である。出来が良い初代であれば七、八十両であったと水野痴雲は語っている。
文久の頃とは龍馬脱藩の頃である。龍馬が権平の大切にしておった肥前忠広を持ち出したとすれば、三,四十両から七,八十両の値段の刀剣を差して脱藩した事になるのである。
また「肥前忠広」はすばらしい斬れ味の刀剣であり、初代は「最上大業物」、最も斬れ味の良い刀である。二代忠広も「大業物」であり良く切れるのである。
こうした名刀を帯刀する事は剣客としても心強く、脱藩という命を賭した行動を勇気づけるに十分な刀剣であったと思われる。

結局、龍馬はどんなに困っても刀剣を売る事は考えず、刀に付属する部品「縁頭」を売る事によって脱藩後の旅費及び生活費の不足を補っていたのである。
もし、「肥前忠広」を売却して安い刀剣に差し換えていたならば、龍馬はかなりの大金を手にしたことになる。
樋口真吉の日記「遣倦録」(愚葊筆記)に、
「文久二年七月廿三日 逢龍馬贈一圓攸二歸干京」
とある。
名刀を売り払って大金を手にした龍馬に一両を贈るとは考えにくい。たぶんこの時、龍馬の姿は樋口が一両を贈りたくなるような状態だったと思われる。
それ故に、文久2年7月23日(脱藩から4カ月後)の時点で、権平の「大切にしておった刀」は売却していなかったと推定できる。しかし、その刀剣の柄からは「縁頭」を外して売り払っているので、その後、「目貫」「鐔」を手放した
可能性がある。
柄に布を巻いていたと大石彌太郎は語っているので、おそらく柄下地に鮫皮を巻いた状態の柄に、龍馬は自分で布を巻きつけているのである。
こうした柄に目貫は必要なく、鐔は安いものに付け換えればよいのである。
目貫、鐔と売り払えば、樋口真吉と別れてから江戸の千葉道場へ入るまでの約2カ月、何とか旅を続けられたのではないだろうか。
江戸京橋桶町の千葉道場へ到着したのは閏8月23日(1862/10/16)とされている。
約6カ月の旅を終え、龍馬は「忠広」を腰に差して千葉道場へ入ったと思われる。

しかし、この「忠広」に関して別の資料がある。
平尾道雄著「維新暗殺秘録」(民友社:昭和5年刊)の「浪士本間精一郎」という章に、
『下手人は、土藩の吉村寅太郎と安岡嘉助だと云ふ説(北畠治房男)もあるが、是れは當時の事情から推して信じ難い。一般には薩摩の田中新兵衛と、土佐の岡田以蔵、平井収二郎、島村衛吉、松山深蔵、小畑孫三郎、弘瀬健太、田邊豪次郎等だと云ふ事になって居て、「武市瑞山在京日記」閏8月20日の條に、
晩方田中新兵衛来る。四ツ頃迄談じ帰る。同夜、以、豪、健、熊、○、収、孫、衛、用事あり。
と暗に本間刺殺の密事を洩して居る。
此時岡田以蔵の使った刀は、坂本龍馬の佩刀で、肥前の忠広、之を門の扉へ切り掛けて鋩子が折れたさうで、此刀は、一時九段の遊就館へ陳列されてあったと、同藩士五十嵐敬之の談話に見えて居る。』
この話が真実とすれば、龍馬は乙女から与えられた「肥前忠広」を脱藩のあと、京都で岡田以蔵に貸し、別の刀を差して江戸へ向かったことになる。
閏8月20日 本間精一郎刺殺
閏8月23日 龍馬、江戸千葉道場到着
龍馬は岡田以蔵が本間精一郎を斬ることを知っていて、「肥前忠広」を貸し与えたことになる。
兄権平の大事にしていた刀を龍馬が貸すだろうかという疑問が残る。

青山文庫(高知県高岡郡佐川町):学芸員、松岡司氏の「月と影とー武市半平太伝ー」(高知新聞連載)によると、
『五十嵐幾之進は後示、以蔵がこのとき坂本龍馬から借りた肥前忠広を用いて切っ先を折ったと回顧するが、これは半平太の差料のあやまりだろう。』
と書かれて否定されている。

4月1日 坂本龍馬が下関の白石正一郎を訪れたというのが定説である。
平尾道雄氏は「坂本龍馬海援隊始末記」で、
『龍馬は脱藩したのち4月1日(文久2)馬関(下関)の白石正一郎宅に姿を見せたことが「白石正一郎日記」に記されている。』
と書かれている。
筆者の手元にある「白石家文書」(下関市教育委員会編)に載っている。「白石正一郎日記」の文久二年壬戌四月朔日には次のように記されている。
『四月朔日 四ツ半頃御乗船御門前ニて御供目付山口彦五郎より当所御用達=両人の名披露有之候朝の間廉作と波江野上坂の御沙汰有之候所俄ニ御差留の御沙汰相成候吉井仲介より在筑の工藤北条へ書状被托候夕方正一郎帰宅夜ニ入筑前より工藤左門来着吉井の状相渡ス』
龍馬が到着したという記述はない。4月1日前後にも龍馬の名は見当たらないのである。

この「白石家文書」の巻頭に下関市史編さん委員:中原雅夫氏が「白石正一郎日記について」という文章を書かれている。
『私は白石正一郎のことについて書くとなると、いつも同じような疑問にとりつかれる。それは、白石正一郎の日記の原本というものがはたして、あるのだろうか、ないのだろうか、ということである。確かに白石正一郎の日記の原本というものはあった。それは一部分ではあるけれども写本があることで確かめられる。しかし、今、どこかに原本がある可能性があるだろうか。さすがの私も、もうその可能性はおそらくないだろうと思わざるをえない。
少し順序を立ててこの「白石正一郎日記」原本を考えてみたい。
大正14年、「維新日乗簒輯」という本が出て、その中に「白石正一郎日記」というものがあった。したがって決して白石正一郎という人が無名の人ではなく、むしろ、よくいろいろな形でとりあげられている人であることがわかる。
ところが白石正一郎という人はもともと町人であった上に、余り表面立って動くことはしなかった人であった。それでいつの間にか忘れるともなく忘れ去られてしまったのである。それが、地元の下関において、「白石正一郎日記」という本がある。これを復刻したらどうだろうか、といい出した人があった。そこで、「白石正一郎日記」の出版予定を立てて、原本を借りて来て調べてみると、手元にあるのと大分違うのである。こちらにある方が倍近く詳しい。
よくよく調べてみると「白石正一郎日記」が現在少なくとも二種類あること、そして、そのどちらにも「摘要」という字が用いてあること、そして、白石家にとって本家にあたる長府の分が詳しく、分家にあたる東京の方が簡単であることがわかった。それにしても、どうして、東京の分を先に活字にして、長府の分をそのままにしておいたのであろうか。それも、今となってはわからない。』
「白石正一郎日記」は二種ある。長府の本家の日記は「日記中摘要」といい、東京の分家の日記は「日記中摘要下書」という。
「日記中摘要下書」を底本として、これに明治10年12月27、28、29日、明治11年10月7日の分が追補されたものが「白石資風日記」である。
「維新日乗簒輯」に収録されている「白石正一郎日記」(白石資風日記)の文久2年4月1日の記述は次のようである。
『四月一日四ツ半御乗船御門前ニテ御供目附山口彦五郎君ヨリ當地御用達白石ー白石ート正一郎廉作両名披露有之候朝ノ間廉作ト波江野上坂ノ御沙汰有之候所俄ニ御差留相成リ吉井仲介君ヨリ在筑ノ工藤北条両君宛書状御托シ相成正一郎夕方帰宅』
やはり龍馬についての記述はない。

平尾道雄氏が読んだ「白石正一郎日記」は少なくともこの二つの日記ではないと判る。平尾氏が見た日記は原本なのだろうか。それとも、それ以外に「白石正一郎日記」があったのだろうか。
4月1日、龍馬下関到着と書かれた文献はついに発見できなかった。

「坂本龍馬と刀剣」 小美濃清明:著(1995) 第六章 脱藩の刀ー安田証言ー より

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

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