山姥切長義(やまんばぎりちょうぎ)

  • 指定:重要文化財
  • 刀  (切付銘) 本作長義天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打
    長尾新五郎平朝臣顕長所持
    天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也
  • 徳川美術館蔵
  • 長さ 2尺3寸5分(71.2cm)
  • 反り 8分(2.4cm)

 

 

山姥切長義は備前長義作の刀の異名で、信州戸隠山中で山姥なる化物を退治したことに由来する。上州の館林・足利両城主:長尾顕長が、天正14年(1586)、北条氏康より贈られた。天正18年(1590)、顕長の命により、堀川国広は2月に写し:山姥切国広を鍛刀し、5月3日に本歌:山姥切長義に磨上げを行い、詳細な磨上銘を切っている。磨上げについては元来、大磨上無銘だったものに切付銘のみを行った説もある。なお、「山姥切」の逸話については、本歌:山姥切長義・写し:山姥切国広の双方にあり、本来どちらの呼称であるか明かでない。ただし、尾張徳川家の記録には「山姥切」についての記述は無いという。延宝5年(1677)に本阿弥家で折紙が発行されているので「山姥切」の号があれば、折紙にもその旨の記載があるはずであるが記されていない。また、折紙を発行する際に本阿弥家の留帳(刀剣台帳)には長義の刀について記載があったものと思われるが、それは関東大震災で焼失してしまったので知るすべもない。

鎬造り、庵棟、大磨上、身幅広く反りが高い。表裏に棒樋をかき通し、樋先は上がる。大切先。鍛えは小板目に杢まじり、地沸えよくつく。刃文は大互の目乱れ、乱れの谷に小乱れ交じる。乱れ頭丸く、刃縁こまかに沸えて匂い足まじる。鋩子は表裏ともはげしく乱込み尖り心に返る。中心大磨上げ、先一文字、棟平、目釘孔三。切付銘がある。

備前長義は兼光と同じく相州正宗門で、十哲の一人と言われている。在銘の現存刀中、刀は極めて少なく短刀を多く見る。本歌:山姥切長義はいわゆる相伝備前の典型で身幅広く豪快な出来である。地刃共に健全で長義の最も優れた作品の一つといわれている。

本歌:山姥切長義を磨上げた国広は、南国日向の綾町古屋において生をうけた。父祖以来の刀匠ではあったが、中年までは刀工というより、伊東氏の家臣として活躍していたようである。その伊東家が怒濤のような島津勢のために、一敗地にみまわれると、国広もわずか8才の伊東満所を擁して、豊後に奔ったようである。豊後国日出町には、そのとき門人国路らとともに鍛刀したという鍛冶屋敷が残っている。その後、山伏として身をかくしながらも、槌を執っていたが、やがて関東にくだり、足利学校に身を寄せた。ここの第八代校長:宗銀和尚は国広にとって同郷の先輩だった。この人を頼って行ったといわれている。当時、足利城は館林城主:長尾顕長の支配下にあった。天正16年8月、北条氏政父子は顕長が命に背いたという理由で、北条氏忠、氏勝らに命じて館林城を攻めさせた。が、顕長はよく防戦して容易に屈しなかった。そこで茂林寺の僧がなかに入って和を結ぶことになった。その結果、顕長は足利城に移ることになったが、田中氏系図によれば、この籠城のとき国広は足軽大将をあづけられ、比類のない手柄をたてること数度に及んだので、感状をさずけられ、吉広の槍を与えられたということである。宗銀和尚はその前年ごろ遷化したようであるが、その時まで生存していたら、老眼に涙をうかべて喜んでくれたことであろう。
天正18年3月、豊臣秀吉の大軍が潮のように押寄せると、顕長は小田原へは実弟の由良信濃守国繁を名代として籠城させ、自分は足利城を守っていた。そして小田原の戦況を遙かに見守っていたが、日毎に北条方の敗色が濃厚になってきた18年5月、いよいよ決死の肚をきめて、城中にあった国広に磨上げさせたのが、本歌:山姥切長義であった。磨上げ銘にながながと切付けてあるのも、顕長がこの刀を揮って最期を飾ろうという悲壮な決意の現れであろう。しかし、北条氏が無条件降伏したので、予想したような死闘は展開されなかったが、城地を没収され、浪々の身になった。こうなると、頼るべき大樹の蔭もなくなったので、国広は槌を掲げて京都に去って行ったのであろうが、ともかく本歌:山姥切長義は斜陽の北条氏をささえようとした、顕長の悲壮な決意をやどしたもので、見るものに深い感慨を与えずにおかない。

尾張徳川家の記録によれば、延宝五年弥生三日付、代金子拾五枚、本阿弥光常の折紙が付いていて、二代:徳川光友の差料にするため、延宝九年六月代金百五拾弐両一分で買い上げたということである。
尾張徳川家における記録を列記すると、
・中将様御道具 御腰物御脇指帳(慶安5年-享保16年)
一 磨上長義御腰物 折紙無し 延享九年酉六月
・鞘書
「仁壱ノ七拾九(仁1-79)」 備前国長義御刀 磨上無銘長弐尺三寸六分 延宝三乙折紙 代金拾五枚
・折紙
「備前国長義 正真 長サ貳尺参寸六分 表裏樋磨上中心ニ彫付有之 代金子拾五枚 延宝五年巳 弥生三日 本阿(花押)(光常)」

尾張徳川家の蔵刀は尾張徳川家御腰物帳に記載されている。白鞘には蔵番が記されており、儒教における孔子が提唱した五常「仁義礼智信」の一字と数字が鞘書きされるのが通例となる。「仁一ノ十二」「仁二ノ八」などとあらわし、仁義礼智信の順序と数字が小さいほど重要性が高くなる。

佐藤寒山先生の「寒山刀話」のなかに「山姥切長義」について記載されている。
当時の足利の城主は長尾顕長であって、かねてから小田原の北条氏に、家来として臣礼をとっていました。小田原の北条氏は、関東を狙って天下を取ろうとした三人の中の一人なんです。北条氏と、武田氏と、上杉氏というのがそれですが、武田氏がいちばん最初に滅んでしまいます。そして、北条氏は秀吉のために亡ぼされてしまいます。天正18年北条氏滅亡の時には、長尾顕長は小田原には参ぜず足利におったらしいのですが、豊臣方に攻められて、ついに足利で切腹して果てたということになっているけれども、近頃の研究によると、顕長は切腹せずに、千葉のほうに落ちのび、そこで天寿を全うして病死したという説があります。
その長尾顕長が、はじめて北条氏に臣礼をとったときに貰った刀が、「山姥切」と号のある長義の刀です。それはおそらく相当長い刀であっただろうと思われますが、国広が天正18年にそれに磨上げ銘を入れています。それには、北条氏から小田原参府の節に拝領したと書いてあります。「九州日向住国広銘打」と切った刀で、これはいま尾張の徳川黎明会にあります。その銘文によると、長義の長い刀を国広が磨上げて、磨上銘を入れたという意味にも、あるいは銘がなかったので銘だけを国広が入れたという意味にも、どちらにもとられます。
国広はその長義の写しを作っています。それが今重要文化財になっている国広の刀で、それにも小さい銘ではあるけれども「九州日向住国広作」裏に「天正十八年庚寅弐月吉日 平顕長」切っています。それで、この刀を「山姥切」国広と呼んでいます。そういうと山姥を切った刀のように思われやすいけれども、そうではなく、その本科である長義の刀それ自体を「山姥切」といったものらしいのです。そして、その刀を写した刀なので「山姥切国広」と呼ぶべきものと解釈していいと思います。

刀剣談(高瀬羽皐:著 明治43年刊)には尾州家の長義として記載がある。
名古屋の友人より足下天下の名刀を記して大久保家の六股長義を称美せしも、吾尾州徳川に天下無二の備前長義ある事を何故に披露せざるやとの注意であつた、吾等も曾て尾州の長義の事を聞た事がある、けれども未だ一見した事がない、某氏この長義を見て天下に長義の刀少なきにあらず、然れども真に長義の傑作と称すべきは尾州の長義と、大久保の六ツ股長義であらふと言はれた事がある。吾等先年桶狭間、長久手の古戦場調査に赴き、友人に依頼して徳川家の名刀を見るつもりであったが、先方の差支あつて本意を果さなかつた、いつにも尾州の長義は有名である。此刀は下野の佐野の一族長尾新六郎秋長と云ふ武士の佩刀であつた、新六郎は有名な佐野天徳寺の弟と云ふ事だが、天徳寺は昌綱の弟で佐野系図には二人しかない、長尾に養なはれて下野、足利の住んだと云ふ説もあるが、長尾系図にもない、どうも此の人のことは分からぬが、正しく其刀に名が切てあれば疑ふに及ばぬ。此刀は長尾が小田原北条家より貰た物で、初めは余りに長刀である処から、其頃堀川の国広が武者修行をして下野へ来て居たのを頼んで摺上させ二尺四寸程にしたと云ふ、長義の長の字のみ残たと云ふから元は三尺内外の大刀と見ゆる、国広摺上の由来も忠へ切てある、至極の大出来の刀で、実に目を驚す程のものだと云ふ、これが何として尾州徳川家の物となつたか一向に分からない。
(※ 実際の山姥切長義には「長」の文字は残っておらず、国広の切付銘の他には元来の銘字はみられない大磨上となっている。長義は通常「備前国長船住長義」「備州長船住長義」と銘する。もし、茎尻に銘が一字残るのであれば「備」の字であって「長」の字が残るのは考えづらい。)

なお、本歌:山姥切長義と写し:山姥切国広の経緯については、平成26年(2014)に開催された「堀川国広とその一門」展の図録に詳しい。以下の括弧内は同書よりの山姥切長義に関する記述の抜粋となる。
『天正18年は、国広の足跡を理解する上で最も重要な年である。遺例としては、指表に「九州日向住国広作 (裏に)天正十八年庚寅弐吉日平顕長」と銘した「山姥切」の号のある刀(重要文化財)と、指表に「日州住信濃守国広 (裏に)天正十八年八月日 於野州足利学校」と銘した脇指(重要美術品)の二口が現存する。
前者の刀は、足利城主:長尾新五郎顕長の依頼によって、国広が鍛刀したものである。また別に、同年5月3日に長尾顕長が北条氏より拝領した長義の刀(重要文化財)に国広が拝領した旨を明示する切付銘を施している。
刀 (切付銘) 本作長義 天正十八年庚寅五月三日ニ九州日向住国広銘打
天正十四年七月廿一日小田原参府之時従屋形様被下置也
長尾新五郎平朝臣顕長所持
この長尾顕長は、由良成繁の二男で、兄に由良国繁、弟に渡瀬繁詮がいる。足利長尾氏の長尾政長の娘を娶り、その家督を継承して、下野(栃木県)の足利長尾氏の当主となった人物で、上記銘文が示すように、天正14年7月21日に、小田原に参府し、北条氏の臣下となり、その折、長義の刀を拝領した。
その後、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、天正18年4月3日、秀吉軍は、相模の平地に入り、小田原城を包囲し、持久戦に入った。北条方は、これに対し、小田原城に籠城し、長尾顕長及び兄、由良国繁らは、北条氏照の配下に属して、竹ヶ鼻口の守衛の任に就いた(足利市史)。同年7月5日、条件つきの降伏が北条方より出され、7月11日、北条氏政・氏照らは自刃、氏直は高野山に籠居され、ここに北条氏は滅亡する。北条氏滅亡と共に、長尾顕長も足利の城地を没収され、常陸の佐竹義宣に預けられた(足利市史)。その後の消息は不明であるが、一説に流浪の身になったとも伝え、元和7年に病没している(足利市史)。
天正18年2月紀の山姥切の刀と、5月3日の長義の作に切付銘を入れた場所については、従来、小田原城下説と、長尾氏の領地足利説との両説があるが、以上の歴史的事実を踏まえて考えるに、既に臨戦状態にある小田原城下での作刀は、現実的に無理であろう。しかし、この両説の問題とするところは、あくまでも長尾顕長が、国広を招いたという前提に立っての論である。仮に、足利学校が彼を招聘し、同学校を介して、国広を長尾顕長に引き合わせたとすれば、この問題は払拭され、上記の作刀も、切付銘も全て足利で行われたことになる。
足利に於て、天正18年2月に山姥切の刀を作刀した時には、長尾顕長は、まだ足利に止まって出陣しておらず、当地で国広と会っており、山姥切の刀も見たと推測される。しかし、顕長は先に述べたように、天正18年4月には、小田原城に籠城しており、北条氏から拝領した長義の刀も当然持参して、小田原に出陣したはずである。然りとすれば、国広が何故、5月3日に切付銘をきることができたのであろうか。仮りに、本刀を足利に置いて出陣したとしても、顕長が居ない足利で国広が特定した日付をきることは不可能である。
この点について、想像を逞しくすれば、この時期、北条氏は、和戦の評議を繰り返していた(小田原評定)が、長尾顕長は、北条氏の臣下となる前からも何度となく、戦いを経験している百戦錬磨の武将であり、秀吉軍と戦う決意と、また北条氏の家臣であることの誇りと忠誠心を自ら示す気持ちの現れとして、彼の家臣に、その旨と北条氏から拝領した長義の刀を託し、それが、足利に居る国広の元に届き、この時点で彼が、本作の経緯を切ったのではないだろうか。
なお、通説に従えば、この長義の刀は、拝領時には太刀であり、それを国広が天正18年5月3日に大磨上に仕立て直し、磨上銘をきったものであるとしている。しかし、顕長が拝領する以前に、既に大磨上の刀であったものと鑑せられ、国広は、元来無銘であった刀に、前期の銘文を切り付けた、いわゆる切付銘を施したものと考えられる。その根拠とするところは、次の点が挙げられる。
(1)大磨上にした場合、確かに、磨上銘に、「本作何某」と本来の刀工の銘をきるが、その場合、「磨上之」とか「上之」という文字を入れるのが通例である。しかし、本作を見るに、ただ「銘打」とのみきっており、磨上げた旨の表示が見られない。
(2)総体に茎の錆が目立つのに対し、切付銘がその錆にかかっておらず、むしろ、錆の上からきっている感があり、これだけの錆が有るのに比して、銘は鮮明で、茎錆と切付銘が同時であるとは思われない。錆に一段と古色が感じられる。
(3)もし国広自身が磨上げるとすれば、切付ける長文を考慮し、茎のスペースに余裕をもって仕立てたと思われるが、茎にスペースが無く、茎一杯に銘をきり、且つ銘字の間隔が詰まり、銘文の脈絡も乱れ、樋中にまで銘をきり、特に第三目釘孔を避けて銘をきるなど、樋を掻き通しているとはいえ、国広自身、茎のスペースが足らず、かなりきり難かったことが窺える。
(4)目釘孔は三個あり、その中、第二目釘孔にかかっているので、國廣が銘をきった後のものであるが、彼が磨上げたとすれば、何故二つ孔を穿ったのか、長文をきることを考えれば、一つの方がそれだけスペースがとれることになる。これに対し、元来無銘として茎を見た場合、茎と目釘孔のバランスがよく、違和感がなく全く自然である。』

本歌:山姥切長義と写し:山姥切国広ともに国の重要文化財に指定されている。本歌と写しともに国の指定品である国宝・重要文化財となっているものは、この二振以外には皆無であり、双方とも優れた伯仲の名刀であることを物語っている。

(参考文献:日本刀大百科事典より転載・引用・抜粋)

(法量)
長さ 2尺3寸5分(71.2cm)
反り 8分(2.4cm)
元幅 1寸1分(3.3cm)
先幅 1寸(3.0cm)
元重ね 2分5厘(7.6cm)
先重ね 2分(6.1cm)
茎長さ 5寸5分(16.7cm)

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