鳥取県のNと申します。今回は私が長らく愛蔵しておりました末備前の刀を売却するにあたりご尽力いただきありがとうございました。ちょうど、私の愛刀の有年紀と同じ天正年間には鳥取城の戦いがありました。豊臣秀吉の大軍を迎えて戦った鳥取城主:吉川経家が、麾下の猛将:日本之助宮部善祥坊とともに、よく堅守し、さすがの秀吉も10ヶ月の長期戦に持ち込まざるをえなかった、難攻のいくさでありました。しかし、兵糧つきた籠城軍が城主:経家とともに久松山下紅葉の血潮と自刃し、城兵の命を乞うた凄惨な郷土美談があります。

鳥取県の旧国名は 因幡国と伯耆国といいます。
因幡国は山陰道の国名で、今の鳥取県東部、「延喜式」によれば毎年、横刀七振りを貢献することになっていました。隣の伯耆国の十振りに比して少ないが、刀工は鎌倉末期に景長が出現します。景長は「因幡小鍛冶」とよばれ、室町期まで数代続きました。新刀期になると、藩工の信濃大掾忠国の系統が連錦、幕末まで続き、明治になると、宮本包則や日置兼次が掉尾を飾りました。
装剣具は、備前駿河派の三代:宗家が、寛永9年(1632)、因幡に移住、因州駿河派の祖となりました。そして以後、十代の卓随に至り、明治維新を迎えました。
駿河鐔は、因州駿河派の作った鐔で、鉄の円鐔で角耳、中心櫃の両端つまり刃方と棟の当たる所に、初めから素銅の責き金を嵌め込んであるのが特徴です。江戸初期の作は甲冑師風で、鉄の板鐔に透しを入れただけであるが、次第に肉彫り透しに変わります。江戸中期以後は江戸の伊藤家に学んだため、鋤出し彫りに象嵌、あるいは肉彫り透しに金色絵を施すなど、派手なものになりました。
因幡拵えは、因幡の鳥取藩で造られた独特の拵えで、鞘を柿の老木でつくり、それに縦筋の篠彫りを施すのが特徴です。婦人の懐剣では、柄頭と小尻、さらに縁と鯉口などの金具も篠彫りを施しました。
伯耆国は、山陰道八カ国の一つで、現在の鳥取県倉吉市・米子市・境港市・東伯郡・西伯郡・日野郡の地で、日野郡は鉄の産地で、印賀鋼の名は高く天下に知られていました。そのため刀工の発生も早く、日本刀の実質上の始祖と見るべき安綱およびその子:真守は、この国の大原に出現しました。その時代を古剣書は、大同(806)頃としているが、実際は平安朝中期でしょう。安綱より少し遅れて、承和(834)ごろ、伯耆の一の宮:倭文神社に日乗が出たが、遺作にはほとんど接しません。鎌倉期には、東伯郡小鴨に国宗、南北朝期には、檜原に元重、大坂に行安、室町期には、岩見に帥景、金市に氏吉などが出たあと、末期になると、広賀や守広が登場、一門大いに栄え、江戸期まで余勢は続きました。

鳥取は、因幡国邑美郡鳥取郷、現在の鳥取県鳥取市、寛永9年(1632)、鳥取城主:池田光政と、備前岡山城主:池田光仲と入れ替わったさい、光仲は長船の刀工を鳥取城下に連行したが、光政が返還を要求してきたので、致し方なく返しました。それで慶長(1600)ごろから定住している日置兼光のほかに、京都から信濃大掾忠国をよんで、武備の充実を図りました。幕末まで同系統は続きました。

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